絶望的に孤独な外部から見える光の空間

水野勝仁

Houxo Queの作品が放つ光が香月恵介の作品に反射し,香月の作品から反射した光がQueの作品から放たれる光と合流する.Queと香月のそれぞれの作品から放たれる光が重なり合う空間に鑑賞者はいる.

Queの作品は色を切り替え続けている.切り替わり続ける色面が放つ光は,通常の展示であれば,単に前方に放射されるだけである.放射される光の先に鑑賞者がいれば,光は鑑賞者に反射する.鑑賞者は自ら光を反射しながら切り替わりつづける光のなかで,Queの作品を見る.Queの作品を体験するということは,切り替わり続ける色面がつくる光の空間に光の反射体として入るということである.光の空間には,ディスプレイの上にペイントされた蓄光塗料と鑑賞者がモノとして存在しているように見える.しかし,ペイントされた塗料はディスプレイの光と融けあい,ひとつのサーフェイスを構成するようになっているので,鑑賞者だけがモノとして空間に存在して光を反射し続ける.

香月の作品は光を放つピクセルが絵具でモノ化されている.光を放つピクセルが光を奪われて,色だけの物質になっている.モノ化したピクセルは光を求める.モノ化したピクセルは光を反射して,発光するピクセルのようになる.香月の作品はモノのモノ性を捨象して光の情報だけにしたピクセルをモノ化して,再度,光を与えて,鑑賞者の眼に色の集積としての像を届ける.ディスプレイはヒトの眼の構造に基づいて光を三原色に分解して,世界を再構成していく.香月は光を情報化したピクセルをモノ化したサーフェイスをつくりあげる.それは光を放つことはないけれど,もともと三原色の情報に基づいた光であったそのサーフェイスは外部からの光に繊細に反応する.だから,鑑賞者の眼には揺らぎを持った像が届けられる.

今回の展示のキュレーターであり,美術批評家の飯盛希は「「FF0000はどんな赤より赤い」といったHouxo Queの言葉には,光を観念論的な実在として前提する思考が表れている」と書く.Queの作品は「FF0000」を示す光を放ち,香月は「FF0000」をモノ化しているように見える.そんなQueの作品と香月の作品とを向かい合わせに展示したらどうなるだろうか.Queの作品が満たす光を受けて,香月の作品のモノ化したピクセルが発光する.Queの作品に呼応するかたちで香月の作品の見え方が変わる.Queの作品が放つ光が届く範囲にあれば,香月の作品は変化し続ける.色面を切り替え続けるQueの作品とその光を受け続ける香月の作品とのあいだに,光で満ちた空間が現れる.それはQueの作品が単体でつくる光で満ちた空間でもなく,香月の作品が単体でつくる揺らぎの像が現出する空間でもない.飯盛が企画した二人展「NOUMENON」では,Queの作品の光が向かい合った香月の作品の表面に高速で反射し合い,あたらしい空間が生まれている.そこでは,「ディスプレイ」という共通のサーフェイスを介して,Queの色面の切り替えが香月のモノ化したピクセルになり,光を放つようになった香月のモノ化したピクセルがQueの色面の切り替えそのものになっていく.ふたつの作品は互いの作品を模倣するかのように光のあたらしい空間をつくりだす.その結果,鑑賞者は作品の正面から追い出され,Queと香月の作品が向かい合わせになっている状態に直交するかたちで,ふたつの作品を横から見ることになる.さらに,二つの作品が掛けられた平行な仮設壁がつくる細い通路が,鑑賞者を双方の作品の正面から追放して,二つの作品に直交する視点から光の空間を見ることを物理的に促すのである.

作品の正面から追い出された鑑賞者は,人類学者のレーン・ウィラースレフが『ソウル・ハンターズ』で狩猟者とエルクとの「一体化」について書いている状態を,Queと香月の作品を横から見ているときに体験していると考えられる.

狩猟者の二重のパースペクティヴが示唆するのは,視覚上の揺れのようなものである.その揺れの中では,「客体としてのエルクを見る主体としての狩猟者」と「主体としてのエルクによって見られている客体として自らを見る狩猟者」が,あまりの速さで交互に入れ替わるため,種間の境界が侵され,ある程度「一体化」が経験される.1


Queの作品の高速での色面の切り替えとその光を受ける香月の作品のあいだで,作品の「境界が侵され,ある程度「一体化」が経験される」のを,鑑賞者は二つの作品のあいだで行き来する光の束と直交する場所から見る.二人の作品がある程度一体化していく「空間」を見ることになる.通常,空間自体には何もないけれど,空間を満たす光の束が二つの作品を一体化させるような紐帯となっている光の空間が生まれている.光の空間のなかでQueと香月の作品は「一体化」している.しかし,鑑賞者は二つの作品が「一体化」していく「空間」に入ることも,作品を正面から見ている時に生じる作品との一体化も許されない.鑑賞者はQueの作品になることもなく,香月の作品になることもない絶望的に孤独な外部から二つの作品を見ることを強いられる.それは狩猟者とエルクとの「一体化」を外部から見ていたウィラースレフの立場と言えるだろう.

「NOUMENON」では,Queと香月の作品は「ディスプレイ」を共通項とする光のなかで,「光を放つ/放たない」,「モノである/ない」という二項対立を超えて,一体化を可能にする空間自体を構成していく.鑑賞者は,二人の作品がつくる光の空間から漏れ出てくる光をかすかに反射しながら,光を放つ作品と光を反射する作品とが一体化していく空間自体を見ることになる.それは,光そのもの・空間そのものを見るために,鑑賞者は作品の正面から追い出され,如何なる存在とも一体化することがない孤独な視点になることを意味する.孤独な視点から見えるのは,Queと香月の作品が一体化した光の空間のみなのである.

1. レーン・ウィラースレフ『ソウル・ハンターズ』, 奥野克巳,近藤祉秋,古川不可知訳,亜紀書房,2018,p.168