2017年 10月21日 – 11月7日
「アイデアの質量――あるいは彫刻のポテンシャル」
竹之内による一連の制作には、一つの「思考」が――いわば「地下茎」のように――通底している。ただし、その「思考」は、おそらく彼の制作全体にまで共通しているわけではない。つまり、この個展においてもそうだが、いくつかの作品が全体として一つの展覧会――ないし作品――として提示されるとき、それは一つの「問題系」を成しているのである。個々の作品は、それぞれ一つの「問題」に対応しており、事実――恣意的であるように思われるかもしれないが――、一つの命題もしくは概念が、タイトルとして与えられている。こうした作品の題名は、ある程度、具体化された「思考」の結果であるが、「エントロピーとしての思考/重力としての制作」という展覧会の題名は、今回の制作に関する、もっとも抽象的な理念である。
「エントロピー」という言葉は、すくなくとも竹之内の――あるいは一般的に――「思考」がもつ特徴を比喩的に表現していると思われる。すなわち、特殊化する「思考」は、けっして普遍的な次元には遡及しないで、発散するのである。これは、おそらく竹之内の「制作」が、陶芸の技術に基づいていることに由来する。つまり、焼成は不可逆的な工程であり、完成した陶器が、ふたたび土に還ることはないのである。
作者の「思考」において、漠然とした原初的な「アイデア」は、それを表現するための諸条件に則って、作品制作として構想される。構想されたイメージ――あるいは単に「構想」――は、「構造」として分解された上で、いくつかの「かたち」を与えられる――あるいは言語化される――。他方の「重力」という言葉は、質量をもつ作品として「アイデア」を実現するさい、それを重力の影響下に呈出するという「制作」の一面を表現していると考えられる。
竹之内の制作は、いくつものユニットを集積し、巨大な構造体を組み立てることで知られているが、大きな作品が単体で制作されることはない。小作品は「構造」を「分析」した結果であり、それ以上は分解できない「単位」であるが、一方、それを積み重ねて、より大きな作品を構築することは、いわば「総合」であり、ちょうど対立するプロセスにかかわっている。しかし、大作の「構想」が先立ち、それを解体して小作品をつくるのか、それとも「単位」から出発し、それを組織して大作をつくるのか、俄かには判断しづらい。鑑賞者は、あらかじめ構成された作品を目の前にするので、たとえば「ブリコラージュ」の彫刻であるような印象を受けるかもしれないが、竹之内にとっては「思考」なしに「制作」することは不可能であるようにも思われる。
単一の小作品と複数の小作品から成る大作の関係は、竹之内における「思考」と「制作」の位相差に対応している。展覧会タイトルにおける「思考/制作」という対句は、「理想と現実」のあいだを表しているようである。竹之内にとって「理想」は、まさしく「構想」どおりに、大きな「構造」を提示することだろう。しかし、「現実」の展示場所は、作品の規格を限定する――というのは、単にギャラリーが狭いというだけの意味ではないが、実際にも広くない――。そもそも、陶器を焼成するためには、一定の厚みに成形しなければならないし、窯の大きさにも制約があるので、大作を単体で制作するのは困難である。したがって、一度「構造」を分割し、それを重力の影響下において再構築できるよう、まさしく建築的なユニットとして小作品を制作するのだと考えられる。
そうして組み立てられる大作は、構造体というよりも、根源的なイメージにおいては、むしろ一つの「かたち」だったにちがいない。こうした制作方法は――理想的でないが――きわめて理論的であり、ある意味、還元主義的である。というのも、いわば小作品の集積によって大作を復元する過程に、いわゆる創発性は想定されていないからである。それはもっぱら「構想」の「想起」であり、鑑賞者に対しては、過不足なく作者の「思考」を提示することができる。竹之内において形式はメッセージなのである。