反戦のメソドロジー:思考の場処としての展覧会

 結論から言うと、つまるところ「反戦展」は方法論だったのではないだろうか――「来るべき戦争に抗うため」に、我々が何をすべきか、というより、如何にすべきかという問題を提起するための――。テーマが設けられてはいたが、アンデパンダン形式が採られた一方で、形式的によくできた展覧会――下らないことを言えば、キュレーションしないというキュレーション――だったと言える。

 私たちは、まだ「反戦」といったメッセージを訴えるための洗練された手段を獲得していない。「反戦展」は、展示それ自体が全体として――その一般的な手法である――「デモ」の比喩である。「反戦展」には「この展覧会出品者たちだけではなく展覧会に行くすべての人も、行かなくても意識しただけでも反戦に対する何かの意志を示す事になる」という――これは発起人である土屋の言葉ではないが、あの扇動的な呼びかけ文とすこしも矛盾しない――「動員」の論理が通底している。すくなくとも、あの「にじり口」のような狭い入口をくぐってしまったら、その時点で「反戦」に加担することになり、意図しないデモンストレーションの片棒を担がされるというわけである。

 「デモ」には、さまざまな社会的役割をもった人びと、あるいは、すこしずつ異なる思想をもった者たちが集まっているに違いないが、「某として」という各々の立場は問題にならず、声を合わせてシュプレヒコールを上げなければならない。「反戦」という表題のもとに詰め込まれた50余点の作品たちは、まるで「デモ」の参加者のように、各々の表現的な揺らぎを無視されていると言えなくない。「反戦展」は、1つひとつの作品を、それとして見ることが難しい空間だった。それについて何か書くことを前提として展示を見る場合、某の作品について言い加えるために、ときに恣意的な切り取り方が採られることもある。しかし、作品リストには「展示室内での写真撮影は、ご遠慮ください」と記されていた。これによって禁止されたのは、単にカメラを通して見ることというより、具体的に見ること――つまり「お気に入り」の作品を1つ選びとり、展示空間から切り離して語ること――である。私たちは、展示を全体として眺めるよう促されており、視点を抽象化せざるをえなかったのである。

 この展覧会が、非常に狭くるしい、そしてアーティスト・ラン・スペースという内向的な場所で開かれたこと――これもまた方法論的である。無論、条件的に、あの会場しか空いていなかったのかもしれないが、偶然という糸も、このテクストに編み込まれた要素であると捉えるべきだろう。ともすれば「反戦展」は、その開催を知って訪れるのが親しい人びとだけになってしまうか、議論を喚起した、といった点を強調することで、主催者が「それでもやってよかった」などと言いそうである。思うに、発起人の土屋は、そのような自己満足の陥穽に落着してしまいかねないイベントを模すことで、「美術関係者として」政治に応答することの難しさを提起しようとしたのではないだろうか。

 もうひとつ、「反戦展」の形式的な条件に注意するならば、会期が5日間と極端に短かったことも無視できない――もっとも、これもまた条件的に、この期間しか会場が空いていなかったのかもしれないが。ここで問題なのは、会期が短かったこと自体ではなく、むしろ、この短い期間に、ある重要な1日が含まれていたことである。その日、土屋は日本の未来を危惧している場合などではなく、去りゆくロッテマリーンズの一時代を追悼しなくてはならなかった。土屋は会期中ほとんど在廊していたのだろうが、日曜日はマリンスタジアムに向かうべきだったのである。

 野球のことに言及したのは、スタンドで声を合わせて応援歌を歌う「ファン」という在りかたもまた、「反戦展」の比喩と関連するからである。野球を見ることと美術作品を見ることとは、ほとんど同種の素質を要する。それは本来的に「退屈」なものであり、特別な感性の持ち主でなければ、それらから官能的な快楽を引き出すのは難しい。しかし、私たちの多くは、病的に「退屈」であることを認めようとはしない。運動それ自体を見るかわりに、健気に数を数えるとか、あるいは、ドラマチックな物語に置換するなどして、なんとかそれを「理解」しようとする。そのような「にわか」の態度と酷似するように、「反戦展」は、作品それ自体など眼中にないかのようだった。土屋を、素質のない「ファン」であると貶めたり、あるいは、そもそも彼は「野球」など見ていないのだと指弾したりするのは易しい。しかし、すべて彼の掌上に運らされていたのだと顧みれば合点がいくではないか――! 土屋は、あの呼びかけ文から徹底して、その「動員」の論理を強調しながら、蹉跌を演じつづけていたように思われる。1つひとつの作品が、各々のもつ特異性を無視されているような展覧会を開くことで、出品者や鑑賞者に、「デモ」の参列者や、野球場の「ファン」のようなしかたでないオルタナティブを模索するよう促していたのではないだろうか。

 「ノンキュレーション」という偽悪的なマナーによって、彼らは実際に、さまざまな批判を受けたようだが、そのことこそが、そして、そのことだけが、展覧会の成功を証明している。「反戦展」は、展覧会という場を、反戦――あるいは某の社会問題――について思考させる空間として提案していたのではないだろうか。それは、作品を見るという、私たちに許された僅かな快楽をも断つという――あるいは、自らマリンスタジアムに通うことを条件的に不可能にするという――禁欲的な手法によって、私たちが神経症的に忌避する「退屈」さをこそ提供してくれたのである。

 

 

―――――――――

展覧会「反戦――来るべき戦争に抗うために」
SNOW Contemporary XYZ collective
2014年9月25日-29日
http://hansenten2014.tumblr.com/