「凹凸絵画」のエクスプリカシオン・ド・テクスト――絵画における〈書き順〉問題をめぐって【2】

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 勤労感謝の日――サラリーマンのためのこの日、サラリーマンのための――日本で最も狭い行政区画の1つである東京都を、ともすれば最も広漠な街に拡大し、かつ、それを余蘊無きまで疲労で覆い尽くす乗り物――中央線快速は「杉並三駅」に停車しない。何という骨折り損だろうか。休日に――この首都において最も醜い街の1つであると疑わない――阿佐ヶ谷へ向かうことほど億劫なことは無い。

 しかし、筆者は強い意志を以って、再びこの街を訪れた。なぜならば、巷で話題の「凹凸絵画」なるものを、この眼で確かめずにはいられなかったからである。作品を目の前にすると、やはり、とりつく島が無く閉口してしまった。「畳の目を読む」ようなつもりで、下から、あるいは斜めから、作品に接近して目を凝らしていると、作家に声をかけられた。

 放っておいてほしい気持ちが無いではなかったが、しばらく会話をした。そして、草刈は、自身の制作に通底するテーマが、中ザワヒデキによって明確に言語化されたと嬉しそうに語ってくれた。作家と評論家との、ある理想的な関係である。中ザワだけではない。彼女をとりまく優れた評論家たちの名は枚挙に暇がない。そして、彼らの集うTAV Galleryは――今日において最も美術関係者の耳目を集めるテーマである――〈画像〉をめぐる議論に相応しい場処である。

 筆者はほとんど幼少から〈画像〉なるものに馴染みがなく、無論「ベクター」や「ビットマップ」などの概念を使いこなすリテラシーを有していないから、彼らの仕事に対し、何ひとつ付け加えることはできない。では、草刈の作品について今まさに書こうとしているとき、いったい如何なる視点から「凹凸絵画」を語り得ようか――。

 そこで、あらかじめ構想を立てて制作をしているのか訊ねた。彼女は、前もって構想を立てており、実際に、8割はそれに従い、残りの2割は制作の過程で調節していると答えた。なんと挑発的な言葉だろうか。無論、描線に先立つ構想が如何なるものであるかも然ることながら、目の前に与えられた無数の線のうち、どれがその「2割」にあたるものなのか知りたい欲求に駆られたことは言うまでもない。

 しかし、それ以上を訊ねることは野暮である。あるいは無意味であるに違いない。作家が順序や色の選択について独自の法則を有しているとしても、当の本人はそれを認知していないかもしれない。長きに亘る制作を通して、そのルールは意識下に潜められたかもしれない。すなわち、ここで追求しなければならないのは、作者における傾向とか習慣などといったものである。よって、これをめぐる問いは「如何に描いたか」という過去形で立ち上がるのではなく「如何に描くか」という現在形の時制をもつ。

 そもそも、筆者にこの筆を執らせているのは、自身が作者の次に長くこの作品と面を付き合わせたであろうという自負である。では、やはり筆者にできることは「畳の目を読む」ことを除いて他に無い。つまり、ここでは、先に田附楠人の作品をめぐる論考において示した〈書き順〉問題に対する具体的な取り組み――「凹凸」のエクスプリカシオン・ド・テクストを試みたいと思う。

 草刈作品には彫刻的な自由度が存在しないため、単に、より下あるいは奥の線ほど古く、より上あるいは手前の線ほど新しいと容易に知られる。作者による1つひとつの筆触すべてを追跡し、それを言葉で再現前することができるならば、それは「凹凸絵画」と私たちとのあいだにおける一種のアフォーダンスであると言える。

 以下では「凹凸絵画」の最新作である《凹凸絵画 #46》について分析を行う。この作品は、規格が「910×1304 mm」と大きく、そもそも4枚の「455×652 mm」のキャンバスが合わされたものである。そこで、この絵画をデカルト座標に準え、それらを〈象限〉と捉えて分割する――作品は、作家の署名を以て完成の暁光を浴びるだろう。「凹凸絵画」において署名の記される右下のキャンバスは、たしかに〈第4象限〉と呼ぶに相応しい。

 第一は、この絵画を構成するすべての線を、色・太さ・傾きのパラメータによって分類し、それらのシークエンスを確かめるだけの易しい作業である。傾きについては、鉛直 vertical のものを「V」、水平 horizontal のものを「H」、傾きが急 steep のものを「S」、緩やか gentle のものを「G」と略記する(ちなみに、いずれの傾きもキャンバスの規格に従属しており、それぞれの正接の値は「S」が910/652、「G」が455/652と見なして良い)。さらに「S」と「G」の傾きをもつ線については、右肩上がりのものを「+」、右肩下がりのものを「-」と付記する。

 《凹凸絵画 #46》は基本的に対称的な構図であるため、いずれの〈象限〉に関しても、ほぼ同様の結果が得られる。また、それぞれがどの線を示しているか認知に易しいよう、大括弧内に、1束あたりの本数と束数の積のかたちで、その本数を記した。なお、隣接するいくつかの線は同一の束と見なし、それを構成する異なる色の線についてパーレン内に併記するが、暫らく経過した段階で付け加えられたと考えられるものについては「*」や「#」で注意を促す。

 下が〈第2象限〉について解析を行った結果である。前述のとおり、これは何人にも容易に確かめられるため、ご照査されたい。

 

【凡例】(色)=(太さ)=(傾き)[(本数)]

【0】〔地〕
【1】黄緑=細=V[25×3]
【2】橙=細=H[24(1)×2]、白=細=H[(1)×2]、黄緑=太=H[1×4]
【3】赤=太=V[1×4]、白=中=V[2(1)×5]、黒=中 =V[(1)×5]
【4】青=細=S-[4(1)(1*)×4]、黄=細=S-[(1)×4]、黄=太=S-[1×6]
【5】青=細=S+[4(1)(1*)×4]、黄=細=S+[(1)×4]、黄=太=S+[1×6]
【6】紫=太=S+[1×2、3×3]
【7】紫=太=S-[1×2、3×3]
【8】緑=太=H[1×1]
【9】白=太=H[2(1)(1)×1]、黒=太=H[(1)×1]、肌色=太=H[(1)×1]
【10】白=太=V[2(1)×1]、黒=太=V[(1)×1]
【11】白=細=S+[(1*)×4]
【12】白=細=S-[(1*)×4]、赤紫=中=S-[10×1](※)
【13】薄橙=太=S+[1×1]、肌色=太=S+[1×1]
【14】白=太=G-[2(1)×1]、黒=太=G-[(1)×1]
【15】水色=中=G+[10×1、1×4、(1#)×1]、赤=太=G+[2(1)×1]、赤紫=太=G+[(1)×1]
【16】白=太=G-[1×1]
【17】赤紫=中=S+[1×1]
【18】白=太=G-[1×1]
【19】赤=細=V[1×6]
【20】白=中=G+[2(1#)×1]

 まず、この結果から知られることは、驚くべきことに――※印で示した画面の左右中央にあしらわれている10本の赤紫の線が12番目のフェーズではなく13番目のフェーズにも属し得るということを除けば――審級の定まらない線が無いということである(同一のフェーズに属する線同士は、傾きが等しく平行であるため、互いに前後することが可能である)。つまり、この作品における表象のプロセスは、これ以外にあり得ないのである。あらかじめ構想を立てているのだから当然であるとも言えるが、もし草刈が画面を局所的にまなざしていたら、いくらか同時並行可能なシークエンスが発生しそうなものである。具体的には――「G」はともかく――「S」の傾きをもつ線の「±」両方が連続して描かれることなどから、彼女が横断的な視野をもっていることが推し量られる。

 先に、いずれの〈象限〉でもほぼ同様の結果が得られると述べたが、詳細はすこし異なる。第7フェーズまでは、4つのキャンバスは互いに対称であり置換可能であるが、第8フェーズ以降の線は志向性を有しており、それぞれの位相が定められる(本来ならば、第6フェーズの紫色の太い線は、他の等しい傾きをもつ線と同様に第5フェーズに帰属すべきである。しかし、第7フェーズが一応の断絶を見せており、それぞれの〈象限〉において、第6・7フェーズの順序は入れ替わっていることが多い)。よって、それ以降の結果に関しては、上下あるいは左右へ変換すると「±」が反転することが確認できるだろう。

 ここで私たちはある事実を無視できない。つまり、後半の描線によって4つのキャンバスのそれぞれが方向付けられたとしても、それらは依然として置換可能であるということである。やはり、私たちは目の前の作品が、完成された、静的な対象であると思い込みがちではないだろうか。それらを並び替えたとき、幾何学的に成立する他の3つのパターンがあり得ることを確認されたい。その意味において《凹凸絵画 #46》は確率論的な相貌を孕んでいると言える――作品は「別様でもあり得た」が、作者はただ1つの方向性を指定し、私たちの前に提示した。作品の構成を――文字通り――左右するのは、それぞれをどの〈象限〉として位置付けるかという選択だけであり、このとき「Mika Kusakari」の署名は、まさに、どれを〈第4象限〉と銘じるかという選択の現われに他ならない。

 しかし、「凹凸絵画」では一貫して、形象はあらかじめ「地」に描かれることを思い起こさねばならない。それを覆ういくつかの線によって一部が隠れてしまった場合、「凹凸」の上から再度なぞることで、モチーフは表面に浮き上がる。署名も同様である。すると、署名は、上の結果における第0フェーズと第1フェーズのあいだに描かれており、そのキャンバスは最初から〈第4象限〉であることが運命づけられているのである。

 すると、「凹凸絵画」の最新作において、対称性に関する意識は後景に退くことになる。草刈は、準備された構想をキャンバスに素描した上で制作を行うと語った。4枚のキャンバスを組み合わせる46作目は、それらを斉しく制作することで自ずと対称性を獲得する。しかし、作品の方向性はあらかじめ決定されていたのであって、志向性をもつ線によって対称性が破られるのではない。4つの象限は、初めからそれ以外にあり得ない位相を与えられていたのである。

 では「2割」の予測されていない線は如何だろうか。それを対称性から知ることは容易である。たとえば、第15フェーズの赤・赤紫の太線3本組は、〈第1象限〉においてはその間に他のキャンバスには見られない水色の線が1本だけ追加されているし、〈第2象限〉以外では2本の赤紫色の線が赤線を挟むように引かれている。あるいは、第6・7フェーズの紫色の太線について、〈第2象限〉では、その一番左下の線が、〈第4象限〉では、右上から4本と最後の1本の計5本が、薄い紫色に置き換えられており、またそれらの順序については上述の通りである。これらは進行中の作品を前に、作家が当意的に施した〈変化〉であるとしか思われない。

 やはり、真に重要な線を知るためには、再び時系列に注意を払うことが必要である。後半――文字通り――際立って繰り返される白線は如何なる意味を持つだろうか。筆者はこれらのあいだにアドホックに付け加えられた線が存在していると疑わない――。そして、それこそが、作家が自らの手で構想を逸脱し、作品を決定論的な次元から解き放つ一筆であるに違いない。たとえば、16番目と18番目のフェーズに現れる白線――この2本は、本来ならば同じ審級に置かれるはずだったのではないだろうか。あるいは、勇み足を恐れずに言えば、第16のフェーズに白色の太い線が2本引かれることで、この作品は完成する予定だったのではないだろうか。

 しかし、作家はそのうちの片方を描いてしまったとき、完成を躊躇ったに違いない。この2本を異なる審級に引き裂く、1本の線――作品全体の中央、すなわち〈原点〉に最も近い場所に置かれた赤紫色の線分。それは、俄に、そこが作品全体の頂点や輪郭線の中点であることも可能であった過去を回顧させ――しかしこれ以外にはあり得なかった――現在を中止、あるいは遅延させる一筆である。

 筆者は、これまでの長考が、すべてこの1本の線と出会うために費やされたのだと確信する。「凹凸」というマチエール――つまり、絵具が〈厚み〉をもつことの意味とは、どれほど細小な線分であれ、それが明確な意思の力によって作品に狭窄することを発見させることではないだろうか。

 さて、このように目を凝らして絵画を見るという経験は、「凹凸絵画」のアフォーダンスを、より高次に惹起すると言えなくもない。実は、筆者は、草刈の作品にまとわりついている美術史的なジャーゴンを引き剥がしたいと願っていた――。果たして、彼女の作品を語るには特殊な概念が必要だろうか。しかし、小難しい議論から「凹凸絵画」を解放しようという試みは、作家はおろか、読者をも喜ばせはしないだろう。まったくの骨折り損である。筆者がこのエクスプリカシオン・ド・テクストを通して得たものとは、箸にも棒にもかからない長文と、重苦しい眼精疲労だけである。とは言え、一途な労働を於いて他に、驚嘆すべき作家の創造に報いることができるものなど無いと信じている。左様なら、この疲労をこそ彼女に捧げよう――。

 ところで、疲れには、やはり、甘いものが効くという。筆を置こうとしている今、筆者は無性に「紗々」が食べたい。

 

 

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草刈ミカ 個展「凹凸絵画」
TAV Gallery
2014年11月8日-24日
http://tavgallery.com/mikakusakari/

 

作者のホームページに転載
http://www.mika-kusakari.com/?eid=68