感覚の不能と「退屈」なメディア・アート――大和田俊《unearth》

 ICCのオープン・スペースは、駒場から15分程度で向かうことができるし――というか、筆者が「コンテンポラリー・アート」と呼ばれるたぐいのものに触れたのは、元学芸員の白井雅人先生のゼミに関連して、ここを見学したのが最初だったし――まさに、ことあるたびに足を運ぶほど、お気に入りの展示のひとつだが――きまって受付に誘導する警備員と、もう何十回も聞かされた道案内を素通りすることができれば、もっと好いのだが――、ここで享受したことについて書くという志向は、これまでに一度も生じたことがなかった。筆者にとって、その理由は明らかであり、つまり、広く「メディア・アート」と呼ばれる「技術」に基づいた作品は、その都度、常に新しく、私たちの目(あるいは耳)を楽しませ、けっして退屈させなかったからである。
 その最奥のコーナーにおいて、若手作家を紹介する「エマージェンシーズ!」でも、すでに見知ったアーティストの作品が展示されることは少なくないのだが、第27回目には、サウンド・アーティストの大和田俊が選ばれた。《unearth》は、フズリナの化石を用いて二酸化炭素を発生させる化学反応に取材した、マルチ・メディアのインスタレーションである。さっそく会期の初日に参観したのだが、本人のツイートによれば「刻々と状況が変わる」らしいし――「刻々と状況が変わる」とは、いかにも我々を退屈させることのないように思われるかもしれないが、以下で論じるのは、この作品が、いかに「退屈」であるかということに他ならない――、また会期半ばに行われるアーティスト・トークおよびパフォーマンスを見聞きせずに評釈を試みることは、本稿を拙速なものにとどめるかもしれないけれども、おそらく「刻々と状況が変わる」といっても、「刻々と状況が変わる」こと自体に変わりはないだろうし、むしろ「刻々と状況が変わる」などということは、けっしてなかったと言ってみたいから、いわば「初読」における感想を呈示することが十分であると考える。誤解のないように断っておくと、読者においては、筆者が大和田の《unearth》は「再読」に足る(というか、そうされるべき)作品であると考えていることを、折々に思い出され、承知されることを願う。

 さて、今回の展示ブースは、手前と奥とに分たれていて、ガラス越しの向こうに、大小17個のフズリナ化石に起源する石灰岩と、4台のマイクによって構成された作品の本体が設置されている。その頭上には、赤いクレンメの取り付けられたチューブの突端が8本ぶら下がっており、それらをたどってみれば、柱のうらにTERUMO社製の輸液バッグが2袋――高カロリー輸液(IVH)に用いるものだろうが――隠されるようにぶら下がっていた。容量は3000mLで、黄色の遮光タイプである。「クエン酸水溶液を使用」という注意書きがあったので、中身は「ハイカリック液」ではないのだろうが、つまり、クエン酸と炭酸カルシウムとが反応して、二酸化炭素が発生するという化学反応を利用した作品である。水溶液が滴下されるのは8ヵ所だけなので、すなわち、それと直接に対応するのは8個の岩石だけなのだが、これも注意書きにあるように「水滴がはねる」ことで、周辺の岩石でも化学反応が起こるように配置されているのだろう。マイクは、その際に発生している微細な音を集音し、手前の部屋に設置された3台のスピーカーをとおして、鑑賞者に聞かせている。
 奥の部屋は、そのなかに入って作品を見ることができるのだが、監視員に「だんだん苦しくなるから、こまめに出るように」と促された。もちろん、ずうっと見つづけていても――心配されたわけではないだろうが、一度、彼が様子を見に入ってきたこと以外は――、とくに問題なかったし、公共の美術館における展示である以上、健康的なリスクのある環境を設定するべくもないだろう。巷では「地球温暖化」が叫ばれているし、平均的な空気中の二酸化炭素濃度を 400ppm(0.04%)ぐらいと思うことにすれば、会期初日の朝、大和田がツイートした「935ppm」という数値は、その倍以上だが、いわゆる「ビル衛生管理法」で定められている指標の「100万分の1000以下」にギリギリ抵触しないように調整されているのだと推測することもできる。いずれにせよ、とにかく安全なのである。鑑賞者が高濃度の二酸化炭素を吸引することの危険性は、《unearth》の構成要素ではない。むしろ、その炭酸ガスが、炭酸カルシウムとしてフズリナに「固定」されていた「2億5000年前」の炭素原子を含んでいるということが、本質的である。

 しかし、もちろんのことだが、まさしくキャプションに「人間の時間をはるかに超えた」と記されている――ちょうど、それに関する現象を「私たちがどのように感覚することができるのか」という問いが、大和田の制作に通底する主要なテーマであるかのように述べられている――いわば神秘的なものを、私たちは感覚的に知ることができない。というのは、筆者の提出するアンチテーゼではなく、むしろ作家自身が、いくつものメディアを併用することによって提供した、いずれのチャンネルをとおしても、私たちが対象について本質的な現象を感覚できないことを、まざまざと知らしめているのだから、それが今回の展示の根幹を成すものであると考えなければならない。
 すぐとなりのブースに展示されているビル・フォンタナの「音響彫刻」と和田永の作品が強烈な音を放って「エマージェンシーズ!」のブースにも干渉しているからではないが、スピーカーから聞こえる音声も、――たとえば、福島の放射能汚染に取材し、それの影響によって発生したと考えられている「ノイズ」を音声や映像に変換した作品が、それと承知したところで、なんの変哲もない感覚しか我々に与えないのと同じしかたで――やはり、なんの変哲もないものであり、それと承知したところで、私たちの感覚は二酸化炭素の発生に関する化学反応と短絡しないのである。

 炭素原子は、その放射性同位体(炭素14)の半減期を基準に、対象の年代測定に利用されることが知られているが――フズリナの化石は、今回「有機的なものから無機的なものへと変化していく過程が保存されています」と説明されているし、そもそも、いわゆる示準化石として有名なので、放射年代測定法との関連において考察することは適切でないかもしれないから、以下に論じることを先に述べておくと、《unearth》では、実際の適用性にかかわらず、あるいは連想されるものとして、それのもたらした認識が前提されていると言うべきなのだが――、その原理を念頭に置くと、化石のうちに含まれる炭素原子は、外界との炭素の交渉――つまり、植物の行う光合成とは、炭素を固定する作用に他ならないが、動物においては、その直接的あるいは間接的な摂取――が遮断される死という瞬間から、いわば「振動子」のように時を刻んでいると考えることができる。この観点からは、空気中の二酸化炭素濃度を表すときに用いられる「ppm(100万分の1)」という分子レベルの単位よりも、むしろ原子レベルの、およそ「1兆分の1」と言われる炭素14原子の存在比率こそが、この作品を通底しているスケールであると言わなければならないし、そのとき化石を、静的なものとしてよりも、より内的に活動しつづけているものとして捉えるほうが適切である。

 IVHバッグを用いたのは、それを点滴に模すことで、作品全体が、いわゆる「静注」のアレゴリーであることを示すためであったと捉えることも、けっして深読みでない。点滴技術の進歩は、――そもそも、「生きる」ことのシネクドキーである――「食べる」ことなしに、ひとを生き永らえさせることを可能にしたが、――まさに「動かざる生命 still life」とでも呼ぶべき化石の姿を重ね合わせている、とまでは言わないけれども――彼らが「生きている」ことを知らせるのは、一定の間隔でくり返される拍動くらいであり、それを示す心電計の「デジタル」な音(電子音という意味ではない)、あるいは、やはり一定の間隔で滴下される薬剤を、それに置き換えたわけではないだろうが、作家は、放射性炭素の崩壊という、原子的な次元では確率的な、しかし、大局的に見れば連続的な反応を、点滴を用いて二酸化炭素を発生させることで、観察的には「デジタル」な現象に変形する必要があったのである。
 手前の部屋には、岩石を俯瞰した映像を見せているモニターが設置されていたが、画面が点滅していたから、それが動画ではなく、離散的なスティル写真を映していることが分かった。たしかに、インスタレーションの真上には、それらしき青い光を発している装置が備えられており、炭酸ガスの濃度変化を感知すると、撮影を行うしくみであるらしい。無論――視覚的な表象は、やはり化学反応の様子を本質的に記録することができないから、そこで何らかの「変化」が起こったことを知らせるならば――、飛び飛びの映像を選択するよりほかにない。それが単に「監視カメラ」の役割を果たすことにとどまるのでなければ、断続的に反応物を滴下する機構を用意しなければならなかったのである。
 滴下の直前、わずかにチューブが痙攣するのが、その合図である。周期はそれぞれ異なっており、短いもので約1分おきに滴下が起きていた。また、鑑賞者による参与も「変化」を不連続なものにすることにおいて有意な要因であると思われる。奥の部屋に入るためのドアには――もし開け放しにされてしまったら、「外気」と交換されることで「変化」が緩衝されてしまうだろうことは言うまでもないが――、簡易ドアクローザー(おそらく、朝日工業社製で価格は2000円ほどのもの)がとり付けられており、「内」と「外」とで、いわば「換気」が行われるのを、確実に鑑賞者の出入りするときに制限し、ランダムに規定しているのである。その影響さえもセンサーが感知するか否かは、映像の様子から知ることができなかったけれども、作品を構成する諸要素は、いずれも「デジタル」な性質を中心化することに寄与していると言える。
 ただし、とぎれとぎれの映像を見ることによっても、あるいは、その反応系のうちに身をおくことによっても、また、そこで回収された音声を聴くことによっても――つまり、与えられた感覚器官によっては、どうしても――、フズリナの化石から二酸化炭素が発生するという化学反応について、私たちはなんら本質的な知覚を行うことができないという事実が現前に横たわっているのである。その一方で、それこそ何らかの方法でそれを感知することができるのは、カメラに搭載されたセンサーだけであるが、大和田の作品において「メディア」とは、――彼の関心が超越的な素材圏に向けられているのなら、それこそ超越的な次元において――むしろ、それを補完することにより、私たちの感覚の不能を表出させるものであると理解されるべきである。

 

 

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エマージェンシーズ! 027 大和田俊《unearth》
ICC
2015年12月22日-2016年3月6日
http://www.ntticc.or.jp/ja/exhibitions/2015/emergencies-027-owada-shun/