熊倉涼子は、一貫して、〈ぬいぐるみ〉をモチーフに、絵画を制作している。
彼女の初個展「Frame In-Out」(2013年、ギャラリー KINGYO)は、「リナルドとアルミーダ」や「ロミオとジュリエット」など、いわゆる「ロマンス」の古典を「背景」としたり、「春画」や「プリクラ」の構図を応用したりすることで、〈ぬいぐるみ〉に人間の営為を「代入」し、それらを、いわば「擬人化」した一連の作品から構成されていた。そもそも〈ぬいぐるみ〉は――クマにせよウサギにせよ――「実際」の動物の格好を、より愛らしいかたちにデフォルメしたものであり、本性的に「擬人化」される運命にあると言える。また、あるいは〈ぬいぐるみ〉たちが、私たちの見ていないところで、ひそかに――しゃべったり、遊んだり――「活動」しているのではないかと想像するひとは少なくない。その意味で、〈ぬいぐるみ〉という形象は、私たちの欲望や妄想のもとで、限りなく自由に変形されるのであり、ある種のファンタジーに属するものである。熊倉は、縫い目や毛羽立ちなど、〈ぬいぐるみ〉のテクスチャを緻密に「再現」したり、キャンバスの画面に額縁を描き込むなど、「だまし絵」に類する技法を用いて、それらを「写実的」に描いた。ただし、本物の〈ぬいぐるみ〉を写生したのではなく、あくまでも想像的な〈ぬいぐるみ〉を、あたかも存在するかのように描いたのである。そうすることで、あるいは――もとより人目に触れるべくもない――情事にふける〈ぬいぐるみ〉たちの姿を描写することで、〈ぬいぐるみ〉という存在の本質を担保に、想像的なものの実在を留保しながら、「写実的」な絵画の巧智を保障したと言える。また、〈ぬいぐるみ〉を覆うように散りばめられた星やハートの記号は――額縁も同様であるが――当初、手描きされていたものの、すぐさまシルクスクリーンを用いる技法に変更された。描かれた空間におけるパースペクティブを無視して画面に貼りつく形象は、まさしく絵画が平面に他ならないことの自覚を表している。そのことは、熊倉の仕事が表層にかかわっていることを明確に示すだけでなく、ある種の異化効果を発揮し、絵画――あるいは、そこに描かれた〈ぬいぐるみ〉――を見ている私たち自身の視線を意識させることで、鑑賞者による恣意的な投影を批判する意図があったことを窺わせる。
熊倉は「吉原芸術大サービス」(2014年4月5日・6日)というアート・フェスティバルにおいて、桜なべ中江の別館・金村を会場に、同様に〈ぬいぐるみ〉たちの情事を描写した、いくつかの作品を配置し、わずかに開かれた窓の隙間から、それらを垣間見るというかたちのインスタレーションを構成した。この作品は――まさしく「秘めごと」を覗き見する意味で、いみじくも《Peeping XXX》と題されたのだが――、鑑賞者を窃視の構造に陥れるための装置だった。そのようなメタ的な位相において、私たちは、絵そのものを見るというよりも、作品の存在をこそ認めるのであり、そこでは寓意的に〈ぬいぐるみ〉に対する私たちの自由な想像と、絵画に対するまなざしとが同一化される。そうすることによって彼女は、自身の制作における〈ぬいぐるみ〉というモチーフの採択が、けっして特殊なものではなく、むしろ絵画の領分とかかわっていることを示したのである。
初期の作品に対し――すなわち2014年の初めに制作された――熊倉の卒業制作は、彼女の画業において、ひとつの画期を成す作品であり、《Once Upon A Time》では、かつてのものとは決定的に異なる方法が採られた。というのも、そこに描かれている二人のクマは、実際の〈ぬいぐるみ〉をモチーフとして描かれたのであり、また「背景」となる舞台に関しては、具体的な戯曲や童話が想定されておらず、その場面も「ラブシーン」ではない。ここでは、アナロジーのしかたで〈ぬいぐるみ〉たちの「生活」に私たち人間の営みを置き換え、それらを物語の登場人物として描くというよりも、単に、〈ぬいぐるみ〉たちが物語を演じている、という物語が抽象化されているのである。もとより虚構的な存在だった〈ぬいぐるみ〉を、いわば二重に虚構化させる方法は、背景の「画中画」と呼応し、それによって、それらがそのように存在するかのように、描かれたモチーフは指標される。つまり、絵画のなかに描き込まれたイメージは――それとしてだけでなく――それ自体が存在することを明示しているのである。そのとき、ディテールが入念に「再現」された〈ぬいぐるみ〉と、簡略に作成された「背景画」とは、同じ程度に「本物」らしいのであり、二重化するという巧智によって、それらを、まったく質的に損なわず表象することが可能である。
卒業制作が評価されたことをきっかけに実現したグループ展「PLANET JAM」(2014年9月27日-11月8日、MASATAKA Contemporary)においては、そのために再び「ロマンス」が題材に選ばれたのだが、このとき熊倉は、すでに、〈ぬいぐるみ〉の質感を丁寧に「再現」することや、それらが性交渉を行う姿を描くことに飽きていたに違いない。というのは、どんな精緻な筆致も、大胆な描画と同等であるような「リアリズム」の審級に、彼女は到達していたからである。たとえば《KISS》において、もはやモチーフのテクスチャは形式化されており――あるいは「達筆」であると言うべきか――、制作に要する時間も以前より大幅に短縮されたことだろう。また、同時に発表された「ラプンツェル」シリーズは、そのうちの1枚だけが大作であり――これは、かつてのように、ラプンツェルと王子の逢瀬の場面を取材したものだが――、そのほかの3作品は額に収められた小作品で、物語のハイライトが描かれており、熊倉の関心の変化を如実に示していた。《Rapunzel -scene 1-》は、《Once Upon A Time》と同様、仰視する構図が採られ、その内に、やはり「画中画」を含んでいたし、《Rapunzel -scene 4-》に描かれた〈ぬいぐるみ〉たちの装着している〈お面〉もまた、熊倉自身が画用紙にクレヨンや水彩絵具で着色して作成したものであり、ある種の「画中画」であると言える。
2015年に替わり、彼女が最初に制作した《Portrait : Whereabouts of the Character》と《Still-life / Vanitas》は、熊倉の「転向」を示すための重要なメルクマールになった。この2作品は、ニューヨークで開催された「ASIA WEEK NEW YORK」(2015年3月、Bernarducci Meisel Gallery)で発表されたもので、後者は「PICTOMANCY」において本邦初公開である。このとき熊倉は、それ以降、自身の制作において「画中画」および「静物画 Still Life」というテーマを中心化する態度を表した。つまり、彼女にとって、もはや「想像」の枠組みとしての「物語」は不要だったのであり、単なる無地の背景に〈お面〉をつけた〈ぬいぐるみ〉を描いたか、そうでなければ――〈お面〉にとどまらず、それと同様に――花や果樹などのモチーフも工作し、〈ぬいぐるみ〉とともに配置することで、作品に描くための空間を「演出」したのである。このとき〈ぬいぐるみ〉もまた、アナロジーを受容する記号ではなく、その絵を描くことが「画中画」のトートロジーであるようなものである。つまり、〈ぬいぐるみ〉にせよ、自らが作成したモチーフにせよ、それらは、さまざまな形式によって捨象されたイメージに他ならず、やはり二重のイメージとして描かれるのである。もしくは、それらの質的な差異にかかわらず、多彩な対象は、斉しく絵具に置き換えられることによって、――あるいは恣意的に――ひとつの画面上に構成されるのであるから、元来、キャンバスという支持体が、その上に描かれたものであれば、どんな形象であれ均質であるような形式的な場処であると言っても好い。その点で、熊倉の制作は、ある種の「静物画」の系譜に連なるのである。
そのような、いわゆる還元主義的な自覚に基づき、熊倉は、工作したモチーフのもつクレヨンや水彩絵具の筆致と、キャンバス上における油絵具のマチエールとが一致するように描き、「だまし絵」と連関する方法を中心化させるのである。「Still Life」というタイトルを冠した作品においては、すべて、「正面」の奥に、「背景画」の「画中画」をとり入れたり、カーテンを配置したりすることによって垂直面を表現し、他方、画面下部の領域に、テーブルクロスなどを描くことで水平面を指示し――あるいは、底辺部に、テーブルのへりを、わずかに覗かせて――、二次元的であるタブローの表層上に、立体的なイス型の「舞台」を、そのように存在するかのように現象させている。彼女の作品に関して言えば、絵画における「イリュージョン」の範疇は、単なる絵画鑑賞における錯覚的な効果にとどまらず、絵画そのもの――すなわち、描かれたもの――の存在を保障することにかかわっているのであり、新たな「リアリズム」の審級に属していると言うべきである。熊倉における「リアリズム」とは、無論、単に「リアル」に描くことや、対象を「ありのまま」に描くことの意でないし――それは本質的に不可能であるが、それ以前に、彼女がそのことに関心をもったことはないだろう――、あるいは、今日、「リアル」という言葉が、いわば「実在するか否かにかかわらず、いかにも存在するよう」であることを意味するならば、やはり対象の実在は問題にならないのである。むしろ、描かれたものが、いみじくも描かれることによって、そのように存在することを保障するための形式であるから、それを「形式的リアリズム」と呼ぶことができるだろう。
「PICTOMANCY」で発表された作品においては、〈ぬいぐるみ〉に加え、ままごと遊びで使われる〈おもちゃ〉が主要なモチーフに採られた。これらもまた「実際」の野菜や食器をデフォルメしたものであることを踏まえれば、やはりイメージを二重化させることによって、対象の完全な再現を可能にするものであると理解されるが、イチゴ、トマト、ピーマンをモチーフに採った小作品が端的に表示しているのは、対象を大雑把な色面で描く「ぬり絵」の方法論であり、これがいくつかの大作にも応用されていることから、それらは習作であった可能性が高い。もし、そうであれば――2016年の作品は、グリザイユ技法に基づいて丹念に素地を準備したらしいのだが――熊倉は、ひとつの絵画を完成させることに関して、陰翳や色彩など、対象の性質というよりは、表層上の出来事にかかわっている、あらゆる技法もまた、畢竟、「ぬり絵」に他ならないと、あるいは、絵とは本性的に「色を塗る」ことであると考えているのかもしれない。
「ぬり絵」の技法も、かつてのシルクスクリーンの技法も、画面を平面的なものとして前提する点で通底するが、たしかに、熊倉の画業は、常に、平面的なものを、あくまでも平面的な位相において保障することに関連していたのであり、換言すれば、イメージとして存在するものを、如何に表層上に現象させるかにかかわっていたのである。それは、いわば表象と表層との交渉であったのだが、〈ぬいぐるみ〉や〈おもちゃ〉などをモチーフに選び、仮象的であるに過ぎないものを、まさに、それを描くことによって、そのように存在させる技術は――あるいは、単なる機知に過ぎなかったのかもしれないが、しかし――魔術的であるとさえ言える。
熊倉涼子 個展「PICTOMANCY」パンフレット(RED AND BLUE GALLERY、2016年8月)に収録
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熊倉涼子 個展「PICTOMANCY」
RED AND BLUE GALLERY
2016年8月27日-9月10日
☞ Curatorial Project(http://ngmrsk.jp/curation/2016-08/)