エクササイズ&Grandscape ① 石原康佑――不随意な身体の表象

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 《エクササイズ》と題された2点の大作は、いずれも横162cm、縦はそれぞれ225cmと227cmであるらしく、かなり大きな絵画である。LOKO GALLERY で最も広い壁面は、2階まで吹き抜けていて、これを並べて展示することができる。石原の作品が、比較的、大きくなる傾向にあるのは、彼が絵画を描く際、キャンバスをイーゼルや壁などにかけて画面に対峙するのではなく、文字通り、その「中」に入って制作するために、十分広い画面が必要であるからだろう。というのも、おそらく石原は、キャンバスを床に寝かせ、その「上」に乗って描くのであり、日本画の技法である「垂らしこみ」よろしく、画面上で絵具を展開させるのである。そのとき、絵具によって広がりかたが違うので、いわばクロマトグラフィーのように、それぞれ異なる色が無数の凹みに沈潜していた。こうした表面の細かい凸凹は、ギャラリーによる紹介文において「アクリル絵画を何十層にも塗り重ねることによって生み出される」と説明されているように、それが生じるまで丹念に作業をくり返し、下地の用意に尋常でない時間をかけた成果であるらしい。アクリル絵具を塗り重ねつづけると表面が凸凹になる原理は分からないが、いずれにせよ石原の制作は、自然の要因に任せる部分が大きく、作者の「意のまま」というわけではない。そうして表現されたものは、ごく簡単に3つの点だけで描かれた目や口によって顔が判別できるため――いわゆる「シミュラクラ」現象であるが――かろうじて人物ないし人間にちかい動物であると分かる。しかし、その形態は「いびつ」であり、作者が人物を構想して描いたというよりは、偶然に生じた模様に表情を加え、人間らしくしたというほうが適切である。

 ロフト状の2階には、一連の小作品《エクササイズのためのエクササイズ》が床に散らされていた。《エクササイズのためのエクササイズ》は、その名のとおり、すなわち《エクササイズ》のための「エクササイズ」であり、ここでいう「エクササイズ」は、「練習」――つまり習作――を意味すると考えられる。台紙の上に、丸めた銀色のテープを乗せ、その上から絵具を垂下させた作品なのだが、おそらく、これは《エクササイズ》の制作方法を説明している。つまり、台紙を水平なキャンバスに類推すれば、丸めたテープの立体は、キャンバスの上に立つ作者の身体に対応する(ちなみに、筆者が鑑賞していたとき、一匹のクモが作品の上を歩いていたのだが、これがとくに象徴的であるということはない)。そして、テープの上から落とされた絵具は、立体のかたちに従って台紙に流れ、不規則な模様をつくる。したがって、《エクササイズ》で描かれた人体のような形態は、キャンバス上に射影された作者の身体であると考えられる。無論、石原は、テープと同様、自らの身体に絵具を滴下したのではないだろうし、あるいは、ジャクソン・ポロックが、キャンバスの上に乗ることは稀であり、実際には四方から制作していたと語ったように、そして、かのハンス・ネイムスの写真もまた、たしかにそのことを示しているように、石原もまた実際にキャンバスの上に乗って描いたわけではないかもしれない。たとえばアラン・カプローは、その中に入れるものとして「環境」を規定し、ポロックが作品の「中」にいるというのは、彼が垂らした絵具だまりの中に立っているかぎりにおいてであると書いたが、ほんとうに「中」に入っていたのか、あるいは「上」に乗っていたのか、といったことは、ここでは全く問題でない。画面にしたたり落ちる絵具は、まぎれもなく作者の身体から放たれたものである。そうして描かれる形態は、物理的な――というよりも身体的な――条件によって制限されているのであり、偶然に生じたものであるとしても、けっして無意味な模様ではなく、他ならぬ作者の身体の表象なのである。

 「エクササイズ」シリーズは、石原による身体に関する制作の「最新版」として説明され、石原がこれまで制作していた「レオタード」シリーズと連続するものであると位置づけられている。しかし「レオタード」シリーズでは、いわば対象的(objective)に――あるいは肉体(body)として――身体が扱われていたようであるのに対し、「エクササイズ」シリーズでは、そのタイトルが示唆するとおり、むしろ主体的(subjective)な身体――つまり運動(exercise)――が主題であるように思われる。もっとも、石原は、あくまでも対象として――客観的に――自身の身体を捉えているのかもしれないし、したがって、逆に「レオタード」シリーズにおける身体も、彼自身の主体だったという可能性は否めない。しかし、彼は自らの身体を表象する際、習作において粘着質のテープを用いたのであり、それは彼の絵画における方法と本質的に合致していた。テープは――私たちが、それを日常的に使うときでさえ、時に「ままならない」のだから――「意のまま」に造形することが難しい。絵を描くとき、言わずもがな人間の身体は――すくなくとも石原の身体は――自在に動かせるものではないので、腕は一定の範囲にしか届かないし、絵具も重力の影響を受けずにはいられない。おそらく石原は、こうしたことに意識的であったために、不随意な身体それ自体の表象を着想するに至ったのである。ゆえに彼は、その習作において、恣意的に加工することができる可塑的な素材を用いるのではなく、強い制約を伴う媒体を選んだのである。

 そうして「エクササイズ」において採られた方法と題名は、いかにも「アクション・ペインティング」を連想させそうであり、実際に、いくつかの点で共通していながらも、微妙に違っている。画面が「垂直」ではなく「水平」であり、絵具が「液状」であることが中心化されている点では、ロザリンド・クラウスがポロックについて論じたように、やはり「ドリップ」の方法に深くかかわっていると言える。ただし、それにもかかわらず、人物と認識されやすいよう調整したという意味では、ポロックが打破しようとしたという「プレグナンツ」を採りいれているのである。石原は、そうするだけで十分に、重力に対する志向がモダニズムの画家とは異なる位相にあることを示せたのだが、彼が該博にも、そうした文脈を念頭に、うまく逃げを打ったのかということもまた、どちらでも構わないことである。いずれにせよ、3つの点が描き入れられたことで顔に見え、したがって、全体がそれ自体として人物に見えるならば、なるほど、画面上の模様が作者自身の表象であるか否かは問題でない。あるいは、独立の主体であると言ってしまっても好い。彼の姿かたちから言って、それは、私たちの身体よりも、はるかに思いどおりには動かしにくそうであり、いかにも不随意そうである。そして、もはや「水平」ではなく「垂直」な壁にかけられた画面のなかで、重力に支配されながら、まさしく「エクササイズ」をしているのである。

 

 

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石原康佑・福濱美志保「エクササイズ & Grandscape」
LOKO GALLERY
2017年5月19日‒6月17日
http://lokogallery.com/exercise-grandscape/