熊倉涼子 個展「PICTOMANCY」トークイベント

 

林 道郎(美術史・美術批評、上智大学教授)× 飯盛 希(キュレーション)

 

:いろんなことを考えさせられるということが、絵を見るときに、僕にとって重要な問題です。単に良い絵というのではなく、なにか変なことが起こっている――それについて考えなければいけないという気にさせてくれる絵というのは、気になります。熊倉さんの作品にも、その意味で、いろんな問題群が潜在していると感じました。たとえば、トロンプルイユの作品は、実物よりも画像のほうが、その効果が高まる場合が多いのですが、熊倉さんの作品は、実物を見たときのほうが、触覚的とも言えるトロンプルイユの感じが出ていますね。筆触の差異――あるいはパターンの差異――によって必然的に生じるズレについて、身体的に理解しているのだと思います。普通のトロンプルイユは写真的なイリュージョンが中心ですが、そうではない筆触によるイリュージョンが――こう言ってよければ、「リアル」なイリュージョンが――あります。

 

飯盛:熊倉の絵画は、いわゆる「静物画」や「だまし絵」と、すこし違っていて、モチーフが、すでにつくられたものであり、それを二重に描くというのが特徴だと思います。

 

:西洋の絵画史のなかに――日本でもそうですが――画中画はたくさん出てきます。いわゆる「メメント・モリ」の静物画の場合などに特徴的な――絵のなかに出てくる絵を、物語の一要素として読むことによって、絵全体の物語ができるような――ある意味、象徴的と言っていい使用のしかたが、主要なモードです。それが一旦、印象派で消えます。モネやピサロなど、印象派の絵には、ほとんど画中画がありません。それが復活するのは、次の世代のセザンヌ、ゴーギャン、ゴッホです(セザンヌはモネたちと同世代ですが、次の展開を準備しました)。後期印象派になると、やたら画中画が出てきます。彼らは、必ずしも、象徴的な意味ではなく、むしろ、絵画空間の自己言及的な要素として画中画をつかいます。つまり、絵を描くというのはどういうことか、という自問自答です。セザンヌの作品には、背景の壁紙やカーテンのパターンといったフラットなモチーフを、もう一度、描きなおすというかたちで画中画が登場します。熊倉さんの静物の背景にも、壁紙のようなものが描かれていて、1870年代くらいのセザンヌの静物を想わせます。印象派世代のそれ以外の作家は、ドガを除いて、ほとんどそういうことをやりません。セザンヌの1890年代くらいの後期の静物画は、よりバロック的になり、カーテンが滝のようにテーブルの上に流れていきます。意識的にアレンジして描きなおしているのです。17世紀の静物画は、大まかな約束事にしたがって、テーブル上のものが配置されますが、セザンヌの静物画は、日常ではありえないアレンジをしています。静物をアレンジしている時点で、彼のなかには、すでに絵画のイメージがあるのです。想像したイメージにしたがってアレンジし、それを描きなおすという、自己言及的な動作です。熊倉さんの作品にもそういうところがあると思います。静物画の舞台が、演劇的に設えられている。最初から絵画を意識して、通常ではありえないかたちにアレンジして、それをまた絵画にうつすという二重性、三重性――。

 

飯盛:私の洞察としては、セザンヌやピカソの延長線上に熊倉の仕事があると思っています。熊倉の作品の美術史的な位置についてはどうお考えになりますか。

 

:いま言ったようなセザンヌの側面と響きあうところは感じます。しかし、それだけではありません。1912年に、ピカソとブラックが、紙や新聞紙を画面の上に直接もりこみ、フラットな絵画空間のなかに、多様な物質が――素材が――あるような作品をつくりました。14年くらいからあと、つまり、いわゆる総合的キュビスムの段階以降は、わざわざ油絵具で同じような作業をするようになります。一度、現実の物質を入れて、それをあらためて描きなおすというような、メタ性――二重性――を背負ったものとして絵画が成立するのです。20世紀の絵画は、その経験のもとに成り立っているので、ジャスパー・ジョーンズが旗やターゲットを描いたり、リヒターが写真をベースにして描いたり、画家たちは、世のなかに溢れる、あらかじめ平面化されたモチーフを、どうやって絵画にとりこむかということにとりくみました。そういう意味では、セザンヌ、ピカソのみならず、ジョーンズやリヒターといった画家たちの延長線上に位置づけられるようにも思います。

 

飯盛:卒業制作のころまでは、ぬいぐるみの毛羽立ちやの質感を、いまよりもリアリスティックに描いていたようなのですが、どんなものでも筆と絵具で描けるということから転じて、なんでも絵具なんだ――キャンバスの上ではすべてが絵具に還元されてしまう――という、いわば還元主義的な意識が強くなったのではないかと思います。そういった認識も連続しているのでしょうか。

 

:単に描けるというだけではなく、むしろ、そのなかでの差異というか、ある筆触で色を描いて、その上になにかを描くとき、自動的に空間性が生じる――その文法を自覚的にマスターした過程があるような気がします。たとえば、フリルのようなモチーフは、緑と青だけで成り立っているのではなく、背景に白を塗り、その上に緑と青を塗ることによってイリュージョンが成立します。そういう関係性を身体的にマスターしているのではないでしょうか。

 

飯盛: 3DCGやVRの技術が発達していますが、熊倉の制作は、具体的な存在を指標していなくてもイメージがそれ自体として存在しているということを、絵画という伝統的な技法に則りながら、保障しているように思います。描いたものが、それ自体としてリアルである、というような。

 

:テクノロジーによってつくられたイメージを見てきた目が描いている作品だと思います。一方では、そういうものと自分の仕事との差異に自覚的なのだろうと思います。ウェブ上の均質なデータを切りとるのと、実際にそれを紙の上に描く作業とは、似ているようで違うと思います。

 

飯盛:絵にしてしまった瞬間に、あるいは、キャンバスの上にうつされてしまった瞬間に、すべてが均質的になることとつながっているように思うのですが、本質的な差異があるのでしょうか。

 

:イメージのモダリティ、あるいは存在性格という意味では、微妙な、しかし、決定的な差異があるように思います。リヒターは写真をベースにして、ほとんどそれに等しいイメージを描きますが、作業を機械的に行うことによって、塗りのアクシデント――塗ったときに生じる物質的な強度――が、かえって明らかになります。写真を参照しているので、コンポジションはレディメイドですから、自分の意思決定は選択だけですが、写真とは違ったイメージができあがります。彼女の場合、コンポジションもつくりこむので、そういう意味ではリヒターと違いますが、塗るという行為と、その物質的抵抗に対する同じような意識があるような気がします。

 

飯盛:今回の作品では、初めて「塗り絵」のような方法が採りいれられました。そもそも、ほとんどの作品でグリザイユ技法が用いられていて、モノクロームの画面に色をのせていくというかたちだったので、根本的に「塗り絵」なのですが、そういった技法を中心化しています。

 

:モチーフによって筆触――塗りかた――が選ばれているように思います。フラットに塗るところもあれば、荒っぽく塗る場合もあるし、塗り絵のようにモチーフを消すような筆触もあります。いろんなモードのペイントをサンプリングする意識があると思います。また、サイズの問題も重要です。いろんな大きさの作品を試されていますが、キャンバスのサイズの決めかたに関しては、良いセンスをもっていると思います。もっと大きなものも見てみたいです。小さいものも良いですが、巨大な壁画のスケールになったとき、モチーフのつかいかたがどうように発展するか興味があります。かつての作品と比べると、筆触の粗さだけではなく、現われかたも違っているように思います。初期のものは、ぬいぐるみが役者として登場しているので、心をもって、生きもののように自分の意思で動いているように見えます。しかし、ここにある作品では、ほとんど死体のようです。ぬいぐるみが意思をもっているように見えるときは、空間がストーリーにしたがって構成される感じを受けますが、ここにある作品では、そう見えません。もちろん、ぬいぐるみであるかぎり、擬人的ですが、眠っている、あるいは死んでいるとき、物語的には読めません。むしろ、絵画のロジックが要請するようなやりかたで配置されているように見えます。オートノミーというか、絵画自身がものを考えているようです。

 

飯盛:静物画を描くとき、ある種のキュビスムのように、いろんな角度から見た対象の表象を1枚の平面に構成していくのは、実在の問題というより、対象の認識のしかたが重要だったと思うのですが、熊倉は、超越論的というか、対象それ自体の存在に関心があるように思います。

 

:キュビスムの経験から抽象絵画が登場すると考えられますが、モンドリアンにしてもマレーヴィチにしても、対象を描くことの関心を失います。モンドリアンの場合、3原色や、垂直線と水平線といった要素が、平面上で対話するように絵を構成します。モンドリアンにとっての線や色面が、熊倉さんにとってのぬいぐるみだと思います。ぬいぐるみや果物といったモチーフが、お互いを意識しあい、良いバランスを見つけようとして、自分たちでものを考えているように見えます。ある種の実在の世界というか、自分とは別に存在している――ぬいぐるみが夜になったら動き出すというような――オートノミー。自律的な彼らの世界があるということを承認しているようです。たしかに、ものの見えかたというより、モチーフの自律性に仮託しながら描いているように思います。実際に過去の静物画をよく見ているのだろうと思います。いろんな参照項が仄見えます。

 

飯盛:記号で埋め尽くされているクロスや、こちら側に見えている「トイザらス」のタグなど、文字が描かれているのが不思議です。視線の誘導という意味があるのかもしれませんが、文字が静物画に採りいれられるとき、どういう効果をもつと思われますか。

 

:それこそキュビスムまでは作例がありません(中世まで遡れば別ですが)。トロンプルイユの作家で、状差しの手紙をそのまま描いた例はありますが、18、19世紀の静物画には基本的に文字は出てきません(墓石など、対象自体の上に文字があるものを描く場合以外は)。1909年から1911年ごろ、ピカソとブラックの分析的キュビスムで文字が登場します。ピカソは手書きですが、ブラックはステンシルをつかい、フラットで機械的な文字を導入します。画面の平面性を強調するためにつかったと言われています。それ以降、画面の平面性を際立たせるために文字をつかう例が多くなりました。一方で、マスメディアやコマーシャリズムの発展のなかで、プリントやポスター、ビルボードなど、都市のなかに氾濫する文字を、そのまま描いてしまう例もあります。熊倉さんの場合は、平面性を強調する意味ではなさそうです。むしろ、自分の身のまわりにある文字を、そのまま描き込んでいるのではないでしょうか。画中画という意味では、ぬいぐるみやおもちゃをモチーフに採ることと一貫していて、あらゆるイメージが加工されたものとして存在しているということを受けとめているように感じます。ファンタジーに押し込めるのではなく、商品としてのリアリティを描いている。ファンタジーの入口に立っているようでありながら、タグを見ると、いや、すべてイメージの廃墟だ、という感じがします。セザンヌは、こういう柄の入ったクロスをつかいます。カーテンやテーブルクロスをアレンジして描いたセザンヌの作品では、カーテンの山が、まさに山に見えてきたり、静物なのに静物ではないスケールが折り込まれていたりします。そういうことをするひとは、その後、あまりいません。変なスケールの多重性が、熊倉さんの絵にもあります。背景に画中画的な背景を描き込むことによって、まわりのものも、とたんに違うスケール感を帯びてきます。なぜ熊倉さんが、背景に太陽やビーチといった自然を描くのか気になります。

 

飯盛:どの作品も舞台のような空間なので、垂直面が強調されます。そのとき、山の風景や海の風景など、本来であれば遠くまで視線がつきぬけていくような背景が描かれていると、約束事として奥行きは無限遠ですが、実は描かれた絵に過ぎないので、そこで視線が止まります。限られた空間を意図的につくりながら、奥行きを調整しているのではないでしょうか。当初は「おめん」というかたちで画中画を採りいれていたのが、静物画という形式に発展したとき、自然のものを背景に選ぶようになったのだろうと思います。

 

:画家は――詩人や小説家もそうですが――自分と自分の作品との関係性をつくるのが難しい。たとえばセザンヌは、モデルを座らせて肖像画を描いても、ちっとも完成に至らない。自分が介入すると絵がダメになるというのです。同時代のマラルメが同じことを言っています。自分が介入すると詩ができない。詩を作るためには、主導権を語にわたさなければならない。言葉同士が関係をもつように、自分は媒介者でなければならないと。絵画や詩が自律性をもつと考える場合に、作者が抱える難問です。モダニズムにおいて、皆が経験します。それを経て、ポストモダニズムでは、サンプリングで、すでにあるものを組み合わせてつくることが多くなります。そのとき、レディメイドを操作するので、作者問題は回避されているように思いがちですが、作者はエディターシップとして強力に戻ってきます。引用主体としての作者です。ある意味、事態は退行的に前近代に戻るのです。ぬいぐるみという擬似的な主体を静物画に導入することは、自分と絵の距離を相対化するために、非常に有効な手段だったのかもしれません。自己をかっこにいれることができます。

 

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質問者1:背景のカーテンがめくれていて、向こうがわに何かが見えていますが、意図的なしかけなのでしょうか。めくってみたい、覗いてみたいという気に駆られます。

 

飯盛:「だまし絵」の基本的な効果ですが、カーテンが何かにかけられているように描かれているので、その背後を想起させるのに十分です。それはキャンバス自体だとも考えられます。モチーフを組み立てる段階でカーテンのかかっていた支持体が、絵に描くとき、絵の支持体と一致してしまうのです。

 

:ゼウクシスとパラシオスの逸話にもあるように、絵画は人工的なものなので、人工性を抑圧し、同時に、それがつくりものであることを見せる、というのは、絵画史のなかでくり返されてきたテーマです。とりわけ19世紀以降、画家たちは自覚的にやるようになりました。ただし、17世紀のフェルメールの多くの絵では、前景にカーテンがあり、まさにキャンバスの前にあるカーテンを開けたところを見ているような気にさせるイリュージョンがあります。熊倉さんはそういうことに意識的なのか、イリュージョンのイリュージョンの……イリュージョンもまた、つくりものだ――めくれるんだ――いうことを示唆するようなしかけなのだろうと思います。

 

質問者2:描いて存在させる、というところがあると思うのですが、二重に描くというやりかただと、どうでもいい、というか、さほど思い入れがないように思えます。

 

飯盛:モチーフとの「距離」という意味では、かなり引いて見ているというか、冷醒な態度が見てとれると思います。画面に没頭することなく、ひとりの鑑賞者のようでもあると思います。絵を描くときは、リーチが限られているので、画面に近寄らなければなりませんが、離れて見ないと、全体が見えないので断片的になってしまい、統一感は得られません。

 

:とくに横長の画面は難しいです。いまにもばらけそうな危うい絵ですが、しかし、うまくいっています。

 

質問者2:在学中の作品には、シルクスクリーンで模様を描いた、かなり平面性の強いものがありましたが、ぬいぐるみの毛並みも、画面の同じ位相にあるような、模様になっているのではないでしょうか。

 

飯盛:なるほど。平面性を強調するという意味では「塗り絵」の方法で踏襲されているとも言えます。

 

(文責:飯盛)

 

熊倉凉子 個展「Pseudomer」パンフレット(RED AND BLUE GALLERY、2018年8月)に収録

 

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熊倉涼子 個展「PICTOMANCY」
RED AND BLUE GALLERY
2016年8月27日-9月10日

☞ Curatorial Project(http://ngmrsk.jp/curation/2016-08/