村山の作品と対峙するとき、作品との関係性について――自身と画面とのあいだにどれくらいの距離を置けばよいか分からず――しばらく戸惑ってしまうことがあった。そのとき頭をもたげるのは、この――ギャラリーの壁面に固定された――作品は、はたして前もって組立てられ、会場に運ばれてきたのだろうかという問いである。たとえ――標本のように――ピンで留められているとしても、というよりはむしろ――作品の大きさに対し、あまりにか細い――ピンで留められているがために、作品は壁面との交渉を続けているように感じられた。完成された作品が、そこに――静かに――掛けられているというわけではないのである。この構造を認めた途端に、作品――と私たちが想定しているもの――に対して感じていた居心地の悪さの正体を知り、それに対する態度を誤っていたことに気づく。すなわち、「作品」を支える壁と認識していたものこそが、むしろ画面として立ち上がり、にわかに「作品」は空間に向けて――私たちのほうへと――拡散するのである。
村山の作品の本質は、「作品」とそれに対峙する者――作者、あるいは観者――とを同一の〈系〉において均質化し、創造、あるいは鑑賞といった、広い意味で交渉と呼べるような働きかけを相対化する作用にあるのではないだろうか。我々を取り込んで懸濁したホモジーニアスな〈空間〉は、次の瞬間には、この〈系〉全体が、一定の法則――誤謬を恐れずに言えば、習慣――のもとに、まだ運動を続けていることを知らせる。その法則とは、この〈系〉を拘束しているあらゆる条件――とりわけ注意すべきは、物理的な規格――に他ならない。
画面の規格に従って姿を変えるシステム――この点で、村山の作品は、アンリ・マティスと無関係ではない。マティスは「構図から生まれる表現は、画面が描き埋められるにつれて修正され、物体は空間のなかで占める位置に従って自分の関連を見つける」と述べた。すなわち、絵画の構図は、その規格にふさわしい関連をもたなくてはならないというのである。マティスは、表現の本質を、事物のあいだの「関係」――とくに色調間の関係性、つまり「ヴァルール」――を喚起することに求め、構図――とりわけ「色彩」――の追究にこそ青春を捧げたと考えられる。
これらの概念は、ちょうど、村山の制作における構図の選択について説明する際にも有効である。作者が――比喩としてよりはむしろ、文字どおり――テクストを編む。テクストは彼に次のストロークを変更することを要求し、作家は常に構図を修正することを余儀なくされる。このとき、作品のプロポーションを決定しているのは誰だろうか――。タブローを観察する客観的な作者は存在しない。互いに〈内力〉を及ぼし合いながら全体として運動を続ける2体から成る、ひとつの〈系〉があるだけである。そのダイナミクスこそが、自己言及的に自らのかたちを示しているのである。
システムという観点において、マティスと村山の相違点を挙げるならば、それは作者の「意識」だろう。マティスは「これから自分の描くものが予め分かっているということは決してない」と語った。また、制作においては、「無意識」の自分に委せきりにするとも――。ただし、マティスにおける「無意識」とは、さながらスポーツにおけるそれのように、特殊な技術が、練習によって無意識化されたところの身体的――あるいは感覚的――な「知」のことである。彼の絵画において構図を決定するのは――彼は、しばしば表現の自己表現性を強調したが――作者その人に他ならなかった。習慣化された感覚によって、あらゆる部分における調和を、その都度、判断していくのである。したがって、タブローと壁画との差異は、単に――しかし決定的な――規格の違い、あるいはポータブルであるか否かという違いだった。
村山の制作においても、めざすべき構図が表現に先立って存在することはない。というのは――実際に如何であるかに関わらず――作品が、アトリエでつくられてしまうということはないからである。私たちの鑑賞――といっても、客観的ではなく、参与的なまなざし――によっても作品が変化しうることが想定されているのである。村山の作品は、オートマチックなフィードバックをもつシステムそのものを現前させることによって、観者を含んだ空間に及ぶ。このとき、壁面は、現象学的に画面へと変化するのである。
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グループ展「Identity X -fusion of memory ~ memory for the future-」
nichido contemporary art
2014年5月23日-6月21日
http://www.nca-g.com/exhibition/2014/identity_x_-fusion_of_memory_memory_for_the_future-/