キュンチョメの〈赤〉――原子力のクロニクル、そしてカープ、あるいはイーグルス

 ここで論じるのは、キュンチョメの〈赤〉についてである。そして、問いは、具体的かつ限定的なかたちで現れる――すなわち、なぜ鯉のぼりのスーツは黒いのだろうか。無論、スーツだから黒い――のかもしれない――と片付けることはできない。少なくとも筆者は、黒い鯉のぼりに違和感を禁じ得なかった――鯉は赤であるべきだった。昨年度の一連の展示を貫いていた〈赤〉の形象、あの鮮やかな〈赤〉の花輪、そして、ホンマエリの〈赤〉のワンピース――赤という色は、キュンチョメの代名詞なのである。しかし、黒い鯉のぼりのスーツを着た人形は、赤い鯉のぼりを無惨にも引き摺り、その尾の部分を脇に抱えている。つまり、スーツは赤い鯉のぼりでもあり得たのである。そして、赤い鯉のぼりは拒絶され、黒い鯉のぼりが採用されたのである。なぜキュンチョメは〈赤〉を排したのか――。
 広島の上空に「ピカッ」という文字を描いたChim↑Pomは、《LEVEL7》によって一早く被曝のクロニクルが更新されたことを宣言し、「東北」というトポスを歴史的な位相に惹起させた。ただし、「ヒロシマ」と「フクシマ」という2つの括弧でくくられた歴史は、戦争における爆撃と、地震に付随した発電所の事故という、本来ならば異なる地平にある事件に対し、偶然――偶然とは歴史的な必然に他ならないが――その爆弾が原子爆弾で、その発電所が原子力発電所だった、という共通因数をくくりだした恣意的な物語である。キュンチョメが震災表象のために〈赤〉を選んだのだとしたら、それは、彼らがカタカナの歴史との関連を絶とうとしたことを意味するかもしれない。
 なぜなら、赤は「広島」を表象する色だからである。この〈赤〉は、けっして「ヒロシマ」の表題ではない。今シーズン前半戦におけるカープの大躍進は、昨年――今年は、また彼らに相応しい順位に落着している――イーグルスが日本シリーズで優勝するという事件の残像のようにも思われた。あるいは、この2つの球団が、いずれも赤を基調としたユニフォームを採用していることや、「広島」と「東北」という、原子力にまつわる悲劇の象徴的なトポスに本拠地を構えることが、その印象を強めるかもしれない。しかし、この2つのチームについての珍事は、もはや野球という同一のカテゴリーのもとでは語り得ぬほど、決定的に異なっている。
 2013年のイーグルスの「日本一」は、日本選手権の対戦相手が巨人軍でなければ、あり得なかったに違いない。日本球界最高の栄誉であるということになっている賞にその名が冠される男とは「プロ野球の父」であり「原子力の父」でもあった。弱小球団だったチームを相手に読売が勝てなかったのは、巨人軍のオーソリティが他ならぬ東北球団によって超克されることが要請されていたからである。――問題は、野球ではない。勝てないはずのイーグルスは勝たなければならず、負けないはずのジャイアンツは負けなければならなかった。この象徴的な「震災復興」の物語は、まさに「逆転移」と呼ぶべき現象だった。

 震災に衝撃を受けたアーティストたちを悩ませた「芸術に何ができるのか」という問いは、「野球に何ができるのか」という問いと本質的には変わらなかった。あの開幕戦における嶋基宏の打球は、たしかにレフトスタンドに届いた――ただし、それだけである。そうでなければ、あれはフェンスを越えたというより、歴史を超越したと言うべきである。いかにも人の同情を惹く、市民的な選手会長のプレーのように、キュンチョメの言葉もまた、「なにかにつながっている」というよりは、ただ足元の瓦礫に吸い込まれていくのみである。キュンチョメは、決して「ヒロシマ」や「フクシマ」を語っているのではない――むしろ、彼らは何も語っていない。キュンチョメの作品が私たちの胸を締めつけるならば、それは、彼らの、越境に対する、けっして叶うことのない挑戦、あるいは哀れなほどの妄執に由来するのではないだろうか。瓦礫に「人という字」をスプレーして回るのも「立入禁止区域に除夜の鐘を鳴らしに行く」のも、「ここではないどこか」とか「立入禁止のその先」などという、あまりにもぼんやりとしたトポス――どこにもない、つまりユートピアに他ならない場所――に対する彼らの憧憬のあらわれである。結局、彼らは「目的地」に辿り着くことはなかったに違いないし、そもそも辿り着くことなどできるはずがない。あまりに実直で不器用な、ときに情けない印象すら感じさせる彼らのパフォーマンスは、抽象的な歴史を語ることへの拒絶と、超越に接続することへの執着とが裏腹に同一化されているのである。
 そして、はたしてキュンチョメは〈赤〉を拒絶した。キュンチョメは、鯉のぼりに赤色を選ぶことはできなかったのである。もし赤い鯉のぼりでスーツを作っていたとしたら――。誰しもが、あの放射能による畸形のような――しかし、誰しもが、そのことを忘れている――鼻から「ふきもどし」が飛び出す怪物を想わずにはいられないだろう。「広島」の赤とは――救済的な――忘却の色である。そして、キュンチョメの〈赤〉は、言うまでもなく――彼らが熱狂的なカープファンでもない限り――「広島」の〈赤〉ではない。この矛盾律的なトートロジーを、しかし、私たちは確認しておく必要がある。キュンチョメにおける、この「反動形成」と呼ぶべき選択が意味するものとは、〈クロニクル〉を語ることを完全には諦められないでいる彼らの拘泥の他にはない。ホンマエリがまっ赤なワンピースを着て樹海の奥へと潜入してゆく映像は、やはり滑稽な印象を与えないでもない。結局「ごめんなさい、ごめんなさい」と慌てふためく彼女の姿を見て、もうたくさんだ、と思った――。

 

 

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キュンチョメ個展「なにかにつながっている」
新宿眼科画廊
2014年7月11日-23日
http://www.gankagarou.com/sche/201407kyunchome.html
https://www.kyunchome.com/blank-6