田附の作品は、一見すると――あるいは写真で見ると――リボン状の樹脂が無数に織り重なっているように思われる。しかし、実は、1枚の分厚いアクリルパネルに対し、細長い切込みを入れ、それによってできた溝に絵具を注入する――という作業を繰り返すことによって制作されている。それを「裏」――鑑賞者にとっての「表」――から見れば、無数の〈線〉が現れるという具合である。
これは、いわゆる絵画ではないから、さしあたりテクストと呼ぼう。そして展覧会のタイトルに採られた「きりかく」という言葉は、漢字で表記すれば「切欠」であり、まさに、このテクストを解読するための「きっかけ」になる。そのとき、もっとも素朴な問いとして立ち上がるのが〈書き順〉である。目の前に残された筆致から作品がつくられるプロセスに思いを巡らせたとき、どのような順序で描かれたのか、という疑問に完全な解答が与えられたとしたら、ある意味で作者の制作を追体験することができると言える。
田附の作品について、うっかり見落としてしまいがちな性質が、たとえば〈線〉と〈線〉の隙間は、メディウムである透明なアクリルが充填しており、けっして中空ではないということである。さらに言い加えるならば、作品の「表面 texture」は、無数の〈線〉がランダムに重なった凸凹の「木目 texture」ではなく、あくまでもそれを閉じ込めているアクリルパネルの滑らかな表層である。私たちは作品を眼前にしたとき、見えない「画面」の存在に注意することができるのである。
また、それぞれの線分は、垂直に奥へと伸びる「スライス状」であり、「せん切り状」であると錯覚してはならない。つまり、普通、絵画においては、絵具が重ねられたとき、より上の筆致のほうが新しいが、「きりかくイメージ」は、手前に向かって新しくなるような「層状」の構造をもっていない。なぜなら、より深く彫られた線が手前に迫り出し、より浅く彫られた線は奥に潜んでいるというに過ぎないからである。
絵画は二次元である。というのは、平面において、座標と時間とのあいだに相関は無い――左から先に描かなくてはならないとか、右は後で描かれたものであるなどの法則によって必ずしも支配されていないからである。しかし「深さ」の方向に関しては、宿命的に前後が定められている。つまり、上に重ねられた絵具ほど新しく、下に隠された筆跡ほど古いのである。一方で、田附の作品は三次元である。つまり、「縦」「横」「深さ」いずれの方向に関しても、時間から自由なのである。
支持体であるアクリルパネルが、単純な直方体の板ではなく――鑑賞者にとって――奥のほうへ窄まる形状に切断されていることにも注意すべきだろう。余白として認められる周縁は手前ほど広くなるため、より深く刻まれた〈線〉は、より断面積の大きい手前の位相に属し、より周縁まで伸びる。ただし、「きりかくイメージ」の〈線〉は、すべてが垂直に彫られている。真正面から見れば、それらは単なる線分としてしか知覚されないが、逆に言えば、そうしない限り――作品に近づいて見る場合など――ほとんど任意のパースペクティブのもとで、表層的には見えないはずである。
より新しい〈線〉は、より古い〈線〉を横切る。そのとき注意しなければならないのは、新しい〈線〉が 古い〈線〉よりも深ければ、それは切断されるけれども、逆に浅かった場合、古い〈線〉は、交わる部分を削られるに過ぎない、ということくらいである。私は田附に1つのことを確認した。すなわち、同時並行でいくつかの〈線〉を彫り進めることはないということである。したがって、そうしようと思えば――おそらく、作者が制作に費やしたよりも長い時間を要することになるが――すべての〈線〉を順序づけ、作品がつくられるプロセスを遡ることができるのである。
作者は1枚のアクリルパネルを――面積的に――ほぼ彫り尽くしてしまっている。しかし、これを全体として――あるいは結果として――無数の切込みの「積分」として理解することは不十分であり、あたかも「一挙に与えられたもの」であるかのように「鑑賞」することも適切でない。すべての〈線〉の審級を確かめる――これこそが、私たちと「きりかくイメージ」とのあいだにおけるアフォーダンスである。
―――――――――
田附楠人 個展「きりかくイメージ」
Frantic Gallery
2014年10月17日-19日
http://www.frantic.jp/ja/exhibition-past/the_notching_images.html