関智生の「赤い絵」は、その名のとおり「赤一色」で描かれており、しばしば指摘されるように、それは血を連想させ、――あるいはカドミウム・レッドの毒性と結び付けられて――危険な、もしくは「タナトス」的な――岡本太郎が「戦慄的」と言った――「赤」という色のもつ誘目性によって、作品を見る者の注意を惹きつけるのだが、そうしてキャンバスの表層に着目させられるとき、関の絵画は、「赤い」と同時に、「白い」とも言わなければならない。作品の支持体は、あらかじめ白い地塗りのほどこされているクレサン社製の水彩用キャンバスである。これは点描などの細かい筆づかいを用いる画法に適しているのだが、関は水彩絵具とともに油絵具をもっぱら「点」や「線」の描画に従事させる一方、すべて赤色で、ペインティングには岩絵具を選び、しかし、日本画科で学んだ者ならば採るはずのないタッチで、生々しい筆触の痕跡を見せながら、画面に ムラ を残している。それらはけっして重なり合うことなく、「面」同士が、互いの領分を奪い合うように鬩ぎ合い、それによって挟まれ、狭く――白く――残された「余白」を、境界として出現させるのである。
そのようにして描かれるのは、オーバーヘッド・プロジェクター(OHP)によってキャンバスに投影された、風景の「映像」である。二次元に捨象された「イメージ」を なぞる ことで、三次元の景色を平面に対応させるという、古来、絵画のもつ条件を引き受けながら、しかし、関の絵筆はタブローの側面にまで及ぶのであり、1つの画面と4つの側面で――計5面、といっても、それらは垂直に関係し合うのだが――、再び立体的な世界へと立ち返るために、それを再現前させるというよりは、むしろ現象として、目の前のタブローから空間を立ち現せようと試みているのではないだろうか。何も描かれなかった、つまり色の不在としての「余白」は、表現される植物たちの属する、それらに先立つ空虚について注意させ、――関自身がその影響を認める南画の技法のように――形象を絵具に対応させたとき、葉叢を描く一つひとつの筆触は、はじめは まっ白 だったキャンバスに色が置かれる瞬間であるというだけでなく、それによって指標される風景そのものが発生する瞬間でもある。「赤い絵」におけるまさしく「空白」 とは、それを生み出す「触覚的な筆跡」によって、画家がするのと同じように、空間を感覚すること、あるいは、把握することの よすが なのである。
ところで、今回の個展「老婦人の庭」において、異なる種類の絵具はけっして重ねて塗られることがなかったにもかかわらず、「赤い絵」第71作目にあたり、大作としては最新作である《梅の花と廃屋》では、油絵具による点描が岩絵具の上に姿を現した。言うまでもなく――しかし、あえてそう言わなければならない――、この筆跡は、白いキャンバスの上ではなく、赤い岩絵具の上の出来事なのであり、けっして視覚的な効果としてではないが、色の「陰翳」にかくれていた別の葉の痕跡を前面に浮き上がらせることに他ならない。そこに画家の新境地を見てとることもできるが、そもそも関の個展は一連して「Real/Red」と冠されてきたのであり、「赤」は、私たちの視線を、あの「白い夢路」――あえて、そう呼んでみたい――に誘うための巧智であったし、あらためてタブローのもつ奥行きが意識されるのであれば、「赤い絵」とは、画面に映写されるように、いわゆる「リアル」に、光景を表象することが目的なのではなく、それを再生させるための装置であると言えるのではないだろうか。
関 智生 個展「Real/Red 老婦人の庭」リーフレット(Gallery OUT of PLACE、2015年7月)に収録
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関 智生 個展「Real/Red 老婦人の庭」
Gallery OUT of PLACE TOKIO
2015年3月6日-4月5日
http://www.outofplace.jp/tokio/
ギャラリーのホームページに転載
☞ http://www.outofplace.jp/nara/