眺望することとしての「旅」――THE COPY TRAVELERS

 恵比寿NADiff Galleryにおいて加納俊輔・迫鉄平・上田良の3人から成るユニットTHE COPY TRAVELERS(以下、コピトラと略記する)の個展「THE COPY TRAVELERS」が開催された。その発刊を記念し、この展覧会が企画されたところの『THE COPY TRAVELERS by THE COPY TRAVELERS』は、コピー機やスキャナー、カメラなどの機器を利用したコピトラのコラージュ作品のなかから60枚のイメージを厳選し、一冊の本にまとめたものである。このアーティスト・ブックは6000円と高価であるが、きわめて高画質のカラー印刷であり、1枚あたり100円という価格に設定されていることから、彼らの作品がカラーコピーという作業を通じて制作されたことを思わせるためであったと考えられる。

 7月20日(海の日)には「THE COPY TRAVELERS、メディウム論、あるいは美術/写真史における共同制作について」と題し、星野太・甲斐義明二氏によるトークイベントが行われた。ここではコピトラの活動を考える際のキーワードとして「コピー」「メディウム」「共同作業」の3つが挙げられたが、まず、星野氏は、コピトラがコピー機を利用することから、セス・ジーゲローブの《ゼロックス・ブック》(1968年刊、Nadiffにおいて現物を18万円で購入することができた)を連想したという。しかし、《ゼロックス・ブック》は、当時、最先端の技術であったゼロックスを利用したアーティスト・ブックであり、メディアの新しさにおいて作品の生み出されたコンテクストが異なるため、単純には比較できないという。そのとき、ロザリンド・クラウスのメディウム論が重要であるらしいが、「複製技術時代」において「時代遅れ」であるメディウムとして写真を論じたベンヤミンと同じ位相で、いわば「ポスト・メディウム時代」において「時代遅れ」であるメディウムとしてコピー機を利用するコピトラの作品を理解しようと試みるならば、そのよすがとして「メディウムの再発明」を引用することはきわめて妥当であると言える。しかし、作品を理論的な対象として、それのために何らかの結論を導出することに満足することなく、イメージそのものには一歩たりとも立ち入ることができないことを反省するならば、私たちは作品の提示する景観を眼前に呆然と立ち尽くすことしかできないのであり、用意したあらゆる批評理論が、アドホックにさえ、いささかも効力をもたないという失望だけを共有する。

 そこでむしろ核心となるのは、星野氏が指摘したコピトラ作品に認められる「弁別性」である。「共同制作」による作品においても、コピトラの3人のメンバーそれぞれに見られる素材と形式における特徴が容易に確認されるという。加納の作品は、重ねたベニヤ板に、重ねたベニヤ板の写真を貼り、目に見えるレイヤーと実際のベニヤ板の重なりとが相違するような、あるいは、ピントを操作することで遠近感を自在に再構成し、鑑賞者の知覚を混乱させるような、いわば「騙し絵」のようなテクニックが特徴である。加納作品における「コラージュ」の技法について、写真批評家の清水穣は「レイヤーを出現させると同時に、出現したレイヤーの階層性を次々に壊し、更新するプロセス」であると説明した。迫は、画像を表示するディスプレイや、グラビア雑誌などを撮影あるいはスキャンした写真をシルクスクリーンで刷るという手法を採っており、モチーフに特徴があるが、上田はドローイングを採り入れているため、それぞれの作品が、具体的にどのメンバーの手によるものか判断しやすいのである。

 甲斐氏もこれを承け、それぞれの特徴である形式は、作家の「内的な必然性」とは関係なく、単なる「スタイル」として認識されてしまうことがあるとして、「弁別特徴 signature style」という概念を導入した。コラージュという技法のもつ意味を、甲斐氏が区別したとおり、アヴァンギャルドにおける――あるいはインスティテューショナル・クリティークとしての――フォト・モンタージュとは異なる位相に求めるならば、コピトラ作品において、それぞれのメンバーの「スタイル」がはっきりと見てとれるという「弁別性」は、――筆者は、たとえば、SAATCHI GALLERYで開催された展覧会「The Art of Chess」(2012年)において発表された、ダミアン・ハーストや草間彌生など、著名な現代アーティストのチェス作品が、それぞれどの作者の手によるものか一目で知られるような「弁別特徴」を有しており、まさしく「キッチュ」であったことを思い出すのだが――やはり「アヴァンギャルド」よりも、むしろ「キッチュ」という概念と結びつくのである。クソコラではないが、大衆的な安易な造形技術は、個人の「スタイル」の発現を許容しない性質をもつが、そのような形式においてなお、「弁別性」を発揮するコピトラのイメージ群が見せるものとは、グリーンバーグあるいはオルテガ以前の地平である。アヴァンギャルドの指向するのとは真逆の地平に立ち帰り、「如何にして」作品がつくられたかをしきりにあげつらうのではなく、そのようにして――と言うように、すべてのプロセスを棚に上げた上で――つくられたイメージ群が、全体として「何を」指し示しているかを論じなければならないのである。

 私たちは――それが完成しているか否かにかかわらず――「完成されたもの」しか見ることができないし、目の前に与えられたものだけが手がかりである。無論、巷では制作過程を見せることを意図した作品も多く制作されているが、やはりプロセスは本質的に不可視である。コピトラのメンバーのひとりが、成果物よりもプロセスに関する実験であると発言したのは、思わず口をついたデタラメであると理解せざるを得ない。櫻井氏はステートメントのなかで、「そのように理解してはならない」などとして、鑑賞者の視点を絞るような誘導をいくつか行っているが、――あるいはアーティスト・ブックと展示とでは性格が異なるというが――彼があらかじめ伏線を張ったように、「メディウムの差異は、ここでは本質的な差異ではない」のである。それを敷衍するならば、コピー機という「古くさい」メディアを使うことにおいて、デジタルかアナログかという差異もその重要性を失うと考えることができ、問題はメディウムの本質論ではなく、きわめて認識論的な位相にある、というか――より認知心理学的な意味で言えば――「表象」に関するものである。あるいは、そう言うことが許されるならば、表象文化論とは認識論である。メディウムにおける差異は――たしかに根本的に認識を異なるものにするが――、そこで「時間の経過」を重要視するなら、知覚の一回性あるいは再現不可能性、表象不可能性、あるいは共有不可能性のもとに効力を失う。コピトラのイメージのなかには、コピー機という俯瞰的な視線をもつ――つまり、無限の視点をもつがゆえに無視点的である――装置による、特定のパースペクティブをもたない映像だけでなく、その制作過程を映したのだろうか、図版を撮影するカメラをまた撮影したと思われるような、いわば二重のイメージも存在するのだが、視点あるいはアングルによる差異もまた語るに足りないものであると言える。眼前の表層に対し、私たちは斉しく認識論的な見地から、あらゆる差異を無視して、それらを全体として理解することに努めなければならない。

 そこで、星野氏が指摘したような「弁別性」は、むしろ「分別性」と言い換えられるべきである。1枚のイメージを目の前にしたとき、それを任意の部分に「分別」し、あるいは分析しようとする思考は――そもそも、注視するまなざしとはそのようなものであるが――、「コピー」によって生み出される図像ついては不適切であり、コピトラの作品は、それに対して私たちが分析的なまなざしを向けてしまうことを反省する媒質なのである。櫻井氏は「イメージにイメージを積み重ね」あるいは「積み上げること」について、「それほど旅から遠いものもない」とか「旅からもっとも遠いもの」と述べ、独自の「旅」についての解釈を展開したが、これらの言葉に従ってコピトラの作品を理解しようと努めるならば、「即座に」イメージを成形する、というコピー機の性格に注意すること、あるいは、むしろ――結局、トークイベント後半のディスカッションにおいて語られることはなかったが――星野氏の提出した「版画」概念の拡張という視点こそが必要なのではないだろうか。コピトラのメンバー3人はいずれも版画科の出身であり――そのとき版画における分業制などを考えれば「共同制作」という要素はとりたてて言及するに値しないものであるとも考えられるのだが――、たとえ「版画」が、重層的な、「分別」可能な部分を含むイメージであるとしても、それは画面全体が「一斉に」圧着されることで生み出される図版であり、総体として「一挙に」認識されるのであるから、私たちは、――それを「第一印象」と呼んでも構わないのだが――その一瞬の現象について忘れてはならないのである。

 星野氏は、『THE COPY TRAVELERS by THE COPY TRAVELERS』が、――トークイベントが海の日に開催されたからではないだろうが――「海に持って行ける」ことが重要であると論じた。しかし、コピトラのアーティストたち、あるいは櫻井氏が、アーティスト・ブックをトートバッグに入れて販売したことは、購入者をそのような浅薄な理解にとどまらせてしまう陥穽であり、そのとき「可搬性」とは、作品を「旅」という名目と結びつけるための巧智に過ぎないと言わなければならない。なぜなら、コピトラの見せるイメージとは、それを「海に持って行ける」というよりは、それを持っていけば、そこが「海」であるとさえ言うことができることにおいて卓越的であり、コピトラにおいて「移動・越境」としての「トラベル」とは、いわば「ガイドブック片手に」「見た見た見たといって通過するだけ」の「旅」とは全く異質だからである。THE COPY TRAVELERSという名が示唆するのは、「コピー」によって世界を「旅」をするというよりは、むしろ「コピー」の世界を「旅」することである、あるいは「コピー」そのものが「世界」なのである。「イメージこそが世界を作る」という櫻井氏の言葉は、結局、コピトラの核心を射ていた。ここで言う「旅」とは、「映像のアンソロジー」としての「世界」に対する「表象」を強化あるいは確認すること、つまり、その映像が指標する風景を目の前にすることではなく、全体として認識される1枚の大きなイメージを眺望することそのものに他ならないのである。

 

 

※ ART iTにおける連載「批評のフィールドワーク」
第45回「騙し絵の彼方――加納俊輔の温故知新」
https://www.art-it.asia/u/admin_ed_contri7_j/sl4japintfydaoieqwbj

 

 

―――――――――

THE COPY TRAVELERS by THE COPY TRAVELERS
NADiff Gallery
2015年7月7日-8月9日
http://www.nadiff.com/gallery/thecopytravelers.html