エクササイズ&Grandscape ② 福濱美志保――審級としての余白

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 「Grandscape」という題名は、言うまでもなく Landscape(風景画)と二重韻――というか、先頭の子音だけを変えたもの――である。したがって、作者において、そう名づけられた一連の作品が、風景画に類する絵画であると意識されていたのだと知られるが、grand というからには、なにか壮大な景色でなければ腑に落ちない。しかし、一見すると、中心にイスらしきものが認められるため、日常的な空間が描かれているようである。ギャラリーによる紹介文で「自身で組んだミニチュア構造物を大画面の油画に引き延ばす」と説明されているとおり、実際には、あたかもそれが巨大な構造であるかのように、ごく小さな対象を描いているらしい。つまり、微視的な視点を採ることによって、眼前の光景を相対的に壮大たらしめるというわけである。

 たとえば「圧倒的なスケールで」などと言うとき、「スケール」という言葉は、感覚的な「規模」程度の意味であるが、福濱の制作に関して言うとき、その意味は「縮尺」に他ならない。作者は――正しくない語用だが――実在の対象を目の前にしていたのに対し、鑑賞者は、任意に拡大された表象を見る。換言すれば、鑑賞者にとっては表象が対象である。そのとき――たとえば顕微鏡写真などを見るときなどがそうであるが――実在とイメージとで「スケール」が乖離していると、瞬時には何が表象されているのか分からない。「Grandscape」については、しばらく観察することで、巨大な箱のように見えていた直方体は――おそらく 200ml サイズの――飲料のパックであり、ちょうど柱のように見えていた円柱は――おそらく飲料のパックに付属する――ストローの一部であると分かる。こうしたモチーフは、けっして私たちの目にとって馴染みがないものではないし――それこそ顕微鏡で観察するような対象とは違い――それと気づいたときの驚きこそあれ、それ自体について新たな認識を与えるようなものではない。したがって、実は「身近」な対象が描かれているということを、あらかじめ知ったうえで、これらの作品を見たとしたら、とくに不思議を感じることもなく、凡庸な作品に思われるかもしれない。

 しかし、福濱は、もっとも大きい作品である《Grandscape》において、恣意的な「スケール」の変換にとどまらず、他にもいくつか「違和感を呼び起こす」ための巧智を発揮している。この作品は、すこし見上げるほどの高さに掲げられていたが、もしちょうど目の高さくらいに展示されていたならば、それこそ描かれた空間の「中に入っていく」ような感覚を生じさせたかもしれない。というのも《Grandscape》は――たとえば抽象表現主義の絵画のような――巨大で均一な平面にも劣らず環境的であり、画面の「中」に視線を没入させる効果においては秀でているからである。しかし、健常な判断力を有する鑑賞者ならば、アーティストたちが期待するようにはイメージに幻惑されないで、冷醒に画面を注視するものである。そこで福濱は、自らの絵画が対象化されることをこそ想定してか、いわば「異化」するための装置を用意した。

 画面に近づいて見ると――すなわち作者と同じ「目線」に立ってみると――かなり粗い、くっきりした平行な筆跡が目立っている。あまり絵具を溶くオイル類を使わずに描いたのかもしれないし、毛の硬い筆で描いたのかもしれない。いずれにせよ、各部分を描く際、一定の方向に筆を走らせたのであり、意図的に筆跡を残したことが推測される。筆跡は――文字通り――実際に作者が使用した筆の痕跡であり、同じ筆であれば、対象を大きく描こうが小さく描こうが、あるいは絵が大きかろうが小さかろうが――つまり「スケール」によらず――肌理の粗さは不変である。したがって、「スケール」の変換にかかわらず一定な「定規」が画面に残されていると言える(これもまた「スケール」である)。もっとも、作品を写真に撮り、その画像を見る、あるいは――今ここでしているように――見せることは、こうした寸法を無視し、恣意的に拡大する、もしくは――というか、ほとんどの場合――縮小することに他ならない。今日、作品が受容される際、「スケール」の相対化は不可避であり、作者はこうしたことに意識的だったとも考えられる。

 そして、こうした「スケール」の操作にも増して、まさしく「違和感」を覚えさせるのが、画面左上の隅に認められる、異質な緑色の余白である。この――白ではない――余白について論じるための審級は、いくつかの可能性がある。素朴なレベルで考えれば、キャンバスそのもの――つまり、描きこまれなかったために地肌を晒している残余としての余白である。もちろん、いくら大きい作品であっても、不注意に塗り残してしまったとは考えにくい。作品に単一の目的を前提すれば、意図的に支持体を露出させることによって、絵画が「描かれたもの」――すなわち「虚構」――にすぎないことを明示しているのだと理解することが妥当である。

 しかし、地塗りを緑色で行うのは、考えられなくもないが、特殊なことであり、すくなくともこの作品に関しては必然的でない。そこで、よりメタ的な次元に思考を移せば、この緑色の領域は、「Grandscape」と名状されるイメージが、キャンバスの周縁よりもすこし内側に輪郭をもつことを指示する、背景としての余白であると考えることもできる。つまり、「Grandscape」は、キャンバスいっぱいに描かれているのではなく、いわば「手前」に存在するのであり、わずかに左上の部分が欠けているか、もしくは単に小さいがために、背景が出現しているのである。もしそうであれば、《Grandscape》という大作は、ひとつの「Grandscape」というイメージを「画中画」として、その内に含むような「だまし絵」に他ならない。

 一方、もっとも高次の、それでいてもっとも低級な審級に、なお残されているのは、この絵画が完全に描かれた可能性である。つまり――これがもっともありそうであるが――作者の目の前の光景が、実際、緑色だったので、そのように描かれているのである。注意深く観察すれば、余白のすぐ右――白い布のように見える部分も、わずかに緑色の光を反映しているように描かれている。このことは、作者がこの作品を制作した空間(アトリエ?)が、緑色の光に満たされていたことを示唆している。そこで、《Grandscape》は、再現前の対象が、現前の対象だけでなく、その環境にまで及んでいるという点で珍奇であると考えても好い。

 ただし、こうして、わずかな余白によって与えられた複数の審級における考察のうち、どれが正しいかといったことは重要でない。三審制ではないが、複数の審級の可能性それ自体を保障することが、余白という想像的な場処のもつ効力なのである。絵画は、ほとんどの場合、一瞬のうちに、そして感覚的に――つまり「見た目」だけで――判断されがちである。それを好ましく思わない画家にとっては、感じさせるのではなく、いかにして考えさせるかということが「争点」なのである。

 

 

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石原康佑・福濱美志保「エクササイズ & Grandscape」
LOKO GALLERY
2017年5月19日‒6月17日
http://lokogallery.com/exercise-grandscape/