プラスチックと「コカ・コーラ」――菅原玄奨の彫刻《A MAN》

Photo by Soichiro Ishida
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 東京造形大学の卒業制作展(ZOKEI展)で発表された、菅原玄奨(大学院2年生)の《A MAN》は、彼が継続的に取りくんでいる「現代人」というテーマに関連する作品で、ヒップホップにおける「決めポーズ」として知られているらしい「DAB」の格好をした人物と、その脇に置かれた「コカ・コーラ」のペットボトルの彫刻である。人物像の素材に採られている FRP すなわち繊維強化プラスチック(Fiber-reinforced Plastic)は、プラスチックの一種であるという点で――ドイツ語で「彫刻」を Plastik というように――本質的に彫刻(とりわけ塑造)に相応しい素材である。もちろん、だからといって、プラスチックであれば、なんでも彫刻に「向いている」というわけではない。FRP は、その強度や密度における利点から、今日、立体的な作品の制作において、しばしば使用されている(ちょうど同じ部屋で展示をしていた八谷聡大の絵画作品の支持体も FRP で成形されていた)。しかし菅原は、これを単に彫刻に適した材料として用いるだけではなく、プラスチックであるという意味で、工業的な大量生産の記号として見なしているのである。というのも、一方のペットボトルは、日本語でそう呼ばれているとおり、PET すなわちポリエチレンテレフタレート(Polyethylene Terephthalate)でできているが、これも――英語でペットボトルのことを抽象的に plastic bottle というように――やはりプラスチックの一種なのである。したがって、塑像のそばにペットボトルを併置することで、FRP でできている人物と PET でできているペットボトルとに共通の述語を与えようとしたのだと考えられる。

 もちろん、それぞれのプラスチック(合成樹脂)は、性質や用途が大きく異なり――とりわけ彫刻の制作と飲料の容器という目的に照らせば――互換的でない。とはいえ、それでできた製品を手にしない日はないほど、プラスチックは私たちの暮らしに浸透し、消費されている素材である。たとえば「ビニール袋」もその好例である。「ビニール袋」は本来、今日ではポリエチレンやポリプロピレンといったポリオレフィンでできた袋がほとんどであるため、「ポリ袋」というのが正しいとされているが、かつてポリ塩化ビニル(PVC)でできた製品が広く使用されていたため、その呼び名が残っているらしい(いずれにせよ英語では plastic bag という)。軟質の PVC は1951年以降、三井化学や三菱化学がレインコートなどの日用品として量産したことから人口に膾炙し、――その名からイメージされるような――透明なシート状の製品を指す一般的な呼称として「ビニール」が定着したようである(そういうわけで、もちろん今日では「ビニール傘」もビニルではなく、たとえばAPOすなわち非晶質ポリオレフィンでできている)。言うまでもなく、さいしょから「ポリ袋」などと呼んでいればよかったのだが、硬質の PVC でできたパイプを「塩ビ管」と呼ぶように、ポリ塩化ビニルを「ポリ」と略すことはなかった。それはむしろ、ポリエチレンでできた「ポリバケツ」のように、やはりポリオレフィンでできているものに使用されるのである。ちなみに「ポリバケツ」は、1957年に積水化学が開発した製品で、現在は子会社の積水テクノ成型の登録商標になっているが、いわゆる「普通名詞になった商標」のひとつであると言える。

 このように正確でない呼称が一般的に通用するほど、プラスチックという素材は私たちを包囲しているのだが、FRP でできた塑像だけを設置したのでは、それがプラスチックの一種だからといって、こうしたコンテクストを引用することはできない。菅原は、これにペットボトルの彫刻を併置するだけで十分に、それを可能にしたのである。そして、そうすることによって――あるいは、そう意図したわけではないのかもしれないが――菅原が示した「現代人」とペットボトルとのあいだの共通点は――ここまで、意図的に「でできた」という文字列をくり返し使用したが――その材質にとどまらない。FRP は、その強度ゆえに中空の構造が可能という点でも、ふたつが本質的に同等であることを保障しているのである。とはいえ、厳密に言えば、ペットボトルと同質なのは、あくまでも「現代人」の塑像であって「現代人」それ自体ではない。しかし、コーラのペットボトルは、無論、コーラそのものではなく、その中に注がれるものによって、あるいは、それに応じて貼られるラベルによって、別のものになりうる容器であり、それ自体は本質をもたないと考えられる。それと同様に「現代人」もまた、流行に影響されやすく、やはり様式的に外見を変える「からっぽ」なものとして表現されていると思われる。

 ただし、プラスチックでできた中空の容器という点では、それこそ――造形上、軟質のプラスチックでは同質性を示すことが難しいかもしれないが――「ビニール袋」を固めて置いても好かったし、ペットボトルならば何でも好かった――というか、必ずしもペットボトルでなくて構わない――とも考えられる。しかし、やはり「コカ・コーラ」であることが重要なのであり、だからこそ、ペットボトルの彫刻の表面には「Coca-Cola」という文字が浮彫になっているのである。これは、ペットボトルを塗料で覆ってしまうと、中身が何であるか分からなくなってしまうので、それがとくにコーラのペットボトルであることを認識させるために、彼が盛りつけたというわけではない。むしろそうだったなら作者の意図は明確だが、実に――筆者も菅原の作品を見て初めて気づいたのだが――「コカ・コーラ」のペットボトルは、500 mL のものだけ、まさしくこのようにロゴが浮き出ているデザインなのである(ちょっと調べても分からなかったのでコカ・コーラ社に問い合わせてみたところ、2015年11月2日から採用されているデザインであるらしい。販促につながるわけでもないのに、電話窓口のアオキさんが丁寧に対応してくださったので、ここに記して感謝する)。つまり、ペットボトルの彫刻は、ペットボトルを型どりして人物像と同じ FRP で造形したのではなく、ほんとうに「コカ・コーラ」のペットボトルそのものを塗装しただけなのである。このとき使用されたのはサーフェイサーという塗料である。サーフェイサーは、プラモデルなどの制作過程においてしばしば用いられ、均質なグレーによって表面の状態が見えやすくなることを活かし、キズを見つけやすくするというのが一般的な用途であるらしい。したがって、透明なペットボトルでは認識されにくかった表面の凹凸が、サーフェイサーで塗装されたことによって、明瞭に知覚されるようになったのである。

 これによって示される事実は、飲料のペットボトルがどれも同じというわけでなく、すくなくとも「コカ・コーラ」の容器は、中身にかかわらず、それと分かるということである。無論、炭酸飲料のペットボトルは、円筒形で、かつ底部が「ペタロイド形状」であるという特徴があるが、同じ炭酸飲料でも「コカ・コーラ」「ファンタ」「スプライト」および「ジンジャーエール」(カナダドライ)で、すべて異なるデザインのペットボトルが採用されている。ただし、これらが「すべて異なる」といっても、それは相対的な述語であり、他と比べることなしにそれと分かるという弁別性は、もっぱら「コカ・コーラ」に相応しいのである。というのも、よく知られている「コカ・コーラ」の瓶の容器は――「コンツアーボトル」というのだが――1915年、模造品対策として――つまり、他の商品から識別できるように――独自のボトルとして開発されたもので、1961年には、それ自体が商標登録されるに至る。ほとんどのひとが(パッケージを見たり中身を飲んだりせずとも)容器のかたちだけで「コカ・コーラ」を見分けられるというのが、その理由であるという。日本でも2008年に立体商標として登録されたが、これは文字やデザインの施されていない容器について初めての事例だったらしい。「コンツアーボトル」と同様、容器それ自体が立体商標として認められたものに「ヤクルト」があるが、やはり――くびれたプラスチック容器入りの乳酸菌飲料ならば、なんでも「ヤクルト」と呼ばれるように――ほとんどのひとが容器の形状から「ヤクルト」を想起することを承け、2010年に登録に至ったらしい。

 ペットボトルが普及した今日、瓶入りのコーラを飲む機会こそ珍しいが、たとえばコーラ味のグミの多くがそのかたちをしているなど、なお「コンツアーボトル」は一般的にコーラの象徴である。こうした象徴的な意味で、「ポップ・アート」の先人たちも、しばしば「コカ・コーラ」を作品に採りいれたのだろう。菅原の作品は、とくにアンディ・ウォーホルの作品――「コンツアーボトル」にスプレーで塗装しただけの――《You’re In》(1967年)に似ている。無論、現代における大量消費の記号として、あるいは、その字義からして彫刻に相応しいという点で、ガラスでできた瓶ではなく、プラスチックでできたペットボトルでなければならなかったのだが、菅原は、それをサーフェイサーで塗装することによって――そういえば、その名称もまた、このことを強調するが――表面に対する志向を指示したのである。というのも、外見にこそ、その同一性を有する「コカ・コーラ」は、たとえば、同じコーラであっても、それに対して「おいしいところがいい」などといって中身を「売り」にしている「ペプシコーラ」とは、まったく審級が違う。菅原のいう「現代人の質感」というのは、もっぱら表面にのみ属しているのであり――すなわち表面的であり――、そもそも塑造という方法も――彼は柳原義達を引き合いに出すが――触覚的であるという意味では、表面の起伏と凹凸にこそかかわっている。表面的な「現代人」をプラスチックで表現することの意義は、それ自体では伝わりにくい。しかし、そうした「現代人」というモデルの妥当性はともかく、菅原は、ひとつのペットボトルを置くという「しぐさ」だけで、自身の制作におけるテーマが、彫刻的な方法と正確に合致していることを証明してみせたのである。